この記事は、岩手県藤沢町大籠という地方に伝わる、千松兄弟という英雄の物語について調べたものです。前回の記事(製鉄と信仰の地「大籠」、千松兄弟とは)で、千松兄弟とは、後藤寿庵と孫右衛門神父であったとの仮説を提起しました。それについて、今回考察してみます。前回同様、ぜひこの記事も信仰と殉教の歴史を伝えている大籠の人達に読んでいただき、コメントを頂けたらと思います。また、関連した情報もコメントでお聞かせください。 大籠と後藤寿庵の関係 大籠の町から県道295号を車で北に30分程の所に、藤沢城の跡があります。天正18年(1590年)まで岩渕近江守、秀信がここの城主として、陸中東磐井郡藤沢を治めていました。そして現在の大籠は藤沢町内にあります。 後藤寿庵廟堂 Wikimedia Commons 岩渕秀信が城主であった時代の大籠には、後に烔屋八人衆と呼ばれた棟梁家のうち、千葉土佐(検断畑屋敷)、須藤相模(千松屋敷)、佐藤淡路(左沢屋敷)、佐藤治(際畑屋敷)が、すでに製鉄を始めていました。このことは、地元が出版している資料(1)にある烔屋八人衆の系譜から分かります。大籠のすぐ近くには遠野城があり、ここの城主は千葉一族である馬籠氏でした。烔屋八人衆のまとめ役であったと考えられるのが、同じ千葉氏族である千葉土佐です。 藤沢城主の岩渕氏も遠野城主の馬籠氏も、共に葛西晴信に仕えていました。葛西氏は製鉄を興し鉄砲の自主生産を盛んに行おうと考えていたようです。1575年の長篠の戦いで、織田信長が鉄砲を大いに利用したことが勝利につながったように、この当時から鉄砲は戦いにおいて重要な武器になりつつありました。先見の明をもって、大籠の製鉄を盛んにしていこうとしたでしょう。 長篠の戦い Wikimedia Commons ですが北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の奥州仕置により、天正18年(1590年)に葛西晴信、そしてその家臣であった岩渕氏、馬籠氏も共に亡ぼされててしまいます。 葛西領内の城主であった首藤伊豆(沢屋敷)、佐藤丹波(中野屋敷)、佐藤肥後(上千松屋敷)が、この葛西家滅亡時に大籠に移り、それぞれが烔屋の棟梁となります。彼らは岩渕秀信とも親交があったでしょう。ちなみに、もう一つの棟梁家、沼倉伊賀(上野屋敷)を含めて、烔屋八人衆は全て武士だったようです。このことも、同じく資料1にある系譜から…