前回の私の記述で、「ただ、何の目標設定もない今日を生きるには、人間は長生きし過ぎなんだから。」に対しても突っ込んで欲しいとのご要望があったので、こちらに(^^; 私が生まれた1970年代ー高度経済成長をとげつつあった日本は、水俣病やイタイイタイ病、四日市ぜんそくなど、全国で沢山の公害が起きて問題になっていた頃だった気がします。私自身もそんな時代に東京で生まれ育ったので、子供の頃喘息がひどく、大人になるまで生きられないと本当に思われていました('Д') 東京はその頃光化学スモックなどが酷く、私も中野の環七の側に住んでいて、自動車の排ガスなども今よりも酷かったのでしょう。喘息で、家に居がちだった幼少時代でした。夏休みはいつも千葉県館山市の海で二か月間療養し元気になりましたが、東京に戻るとまた午前に午後に点滴で、学校なんて3分の1くらいしか行けなかったです。 私が両親と共に引っ越した千葉県野田市は、言わずと知れたお醤油のキッコーマンがあるところです。お醤油を作るには綺麗な水が必要だそうです。綺麗な水、、水も甘かったのでしょうか。越してきた当時、家の周りには夕方になると蛍が舞っていました。東京の狭い駐車場で、黄色い普通のタンポポを取ると「無くなってしまうから取っちゃいけないんだよ!」と友達に言われながら育った私には、衝撃のド田舎でした(笑)。 まるで隣のトトロに出てくるサツキちゃんとメイちゃんよろしく、私は父親が運転するトラックで、ド田舎に引っ越してきたのです。 6月になるとカエルが道路に沢山潰れていて、気持ち悪かった|д゚) 湿った空気に誘われて道路に出て来て、車にひかれるらしいんですよね。 今は住宅街化してしまい、もう蛍もいませんが、庭にクワガタやカブトムシが林から降って来るし、先日は川の周りでキジを見ました。 私の子供二人とも喘息にもならず、私も45歳まで生きられている。 東京の中野で通っていた、甘いイチゴ味のシロップの薬を出し続けてくれた優しかったお医者さんも、優しかったその奥さんももう亡くなってしまいましたが、最後まで私が生きて元気になった事を喜んでくれていました。長く生きられない予定だった筈の私が、家族や沢山の人々に支えられ、無事に命を繋ぐことが出来たました。皆さんに生かされて、ここまで生きて来られました。 沢山のお金を投入して、私を海外に何度も出してくれた父親(母親は心配して…