多くのピアノファンやピアニストが虜になっている、作曲家ショパン。 ピアノの詩人と呼ばれていた彼は、一体どのような人生を歩んできたのでしょうか。 彼の作曲人生は、波瀾万丈に満ちていました。その中でも彼自身が経験した恋の存在は、作曲において大きく影響したと言われています。 今回はショパンの恋物語と共に、彼の代表作とも言えるバラード第一番~第四番を解説していきます。 【ショパンの人物像】 1810年にポーランドで誕生したフレデリック・ショパンは、ロマン派音楽を代表するピアニストで作曲家です。作曲のほとんどを、他の楽器ではなく、ピアノの為だけに時間を費やした為、「ピアノの詩人」と呼ばれています。 美しい旋律は今でも多くのクラシック音楽ファンを魅了しているだけでなく、テレビや喫茶店のBGM等あらゆる所で使用され、一度は耳にした事があるでしょう。そんなショパンの作曲は、ポーランドの詩人ミツキェヴィチからインスピレーションを受けていると言われています。 ドイツやオーストリアでの経験を経て、20歳でフランスへ渡ります。そのフランスで、作家であるジョルジュ・サンドと出会い、恋に落ちます。 ジョルジュ・サンドは冒険に満ちあふれた女性で、かつ、三角関係を経験するなどの危険にも満ちあふれた女性でした。彼女は、ショパンの作曲の為に良い環境を作るなど、母親のような役目を担うこともありました。彼女とは最終的には別れてしまいますが、その間に「バラード第二番」「雨だれ」などの代表作が誕生しています。 そしてショパンは、二度と故郷ワルシャワへ帰ることなく、39歳という若さで亡くなります。 【バラード第一番】 バラード4曲の中で最も人気ですが、フィギアスケートの羽生結弦選手がフリーの演技で使用したことで、さらに有名になったのではないでしょうか。 敵国の司令官となりながらも、祖国の為に戦った青年に、ショパンが共鳴して生まれたと言われています。 【バラード第二番】 「純潔」についての悲劇的なストーリーであるこちらの曲は、悲しみの中で生まれました。ショパンはサンドと恋に落ちる前、マリア・ヴォジンスカという女性と婚約していました。しかし破談してしまったのです。理由は諸説ありますが、彼が革新的活動家とマークされていたからでしょう。 彼はマリアとの手紙を「わが哀しみ」として、大事に持ち続けていたようです。その手紙は決して公にする事はありません…