あなたは、普段、どんな本を読みますか? 小説、文学、ライトノベル、雑誌、あるいは漫画……そもそも、いまは「本」を読まず、電子書籍やWEBサイトしか見ないという人も多いかもしれません。 確かに、電子書籍や情報がまとめてあるWEBサイトはいつでもどこでも気軽にみることができ、また、持ち運びもかさばらないため非常に便利です。 しかし、一方で、様々な懸念もあります。本屋の衰退、情報を「モノ」として所有することができない、絶版になりつつある貴重な古書の処分……特に、日本語という特殊な言語にとって、言葉と本は切り離せないものでした。 筆者がこうして、パソコンやスマートフォンといった液晶画面越しに文章を読み書きするとき、その言葉のつながりのようなものが断絶されている気がしてなりません。それはひとえに、本来言葉に求められていたものと、液晶画面越しの文章に求められるものが乖離してきたからではないか。筆者はそう考えています。 例えば、スマートフォンでブログやWEBマガジンなどを読むとき、「改行が少ないと読みにくい」という話をよく聞きます。 これはちょっとブログの書き方などを調べてみるとすぐわかることで、ともかく改行すること、小さな画面で読みやすいことを心がけることが大事だとされています。 確かに、パソコンならともかく、スマートフォンの小さな画面に、ぎゅうぎゅう詰めになった文面を想像すると……とても読みづらいでしょう。実際、この文章もそういった「読みやすさ」を意識して書いています。適宜改行を入れ、段を変えるようにしています。 でも、これがもし縦書きの文庫本や単行本だったら、どうでしょう? スカスカしていて、読んでいてとてもテンポが悪く感じるのではないでしょうか? あるいは、改行だらけの文章に慣れている人は、逆に本の文面を「文字が多すぎて読みづらい」と感じてしまうかもしれません。 ひたすら読みやすさを重視した文章は、必然、テンポが悪くなります。どんなに上手なライターも、「改行するための」文章を書くため、そこには、縦書きの書物ほどのバリエーションや変化がなく、どうしても表情が乏しい場合には画像の挿入や、フォントの変化に頼ります。書いていてテンポが悪い、と思っていも、改行を入れたほうが目には優しいので、ライターはともかくEnterキーを叩くのです。 各種メディアやフォントの変化自体は、WEBメディア特有の手法で…
本記事は、古賀史健著「20歳の自分に受けさせたい文章講義」を拝読し、その論説を拾いながら解釈を加えて記者の言葉で再構成したものである。 本の詳細が気になる人は、こちらを参考にしてほしい。 20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書) 古賀史健著 文章を書くことにおける悩み 文章を書くことは、正解がない。 なぜならば、空白のページに自分の脳内を映し出していく作業だからだ。脳内は、人それぞれ異なる。脳内にある言葉や、経験や、感情は、そのタイミングで異なるのだ。きっと同じ経験をした人間が、同じストーリーを書き出すとしても全くその表現は異なるだろう。だからこそ人は書くし、書いた作品は評価されるのだと思う。 だが文章を書く作業とは、とてつもなく自分と向き合うのだ。苦しいし、辛いし、辞めたくなることが多い。時間があれば、その文章に向き合いたいと思うときもあれば、もう途中でもいいから諦めてしまいたいと思うこともある。提出したいが、提出が最終的な評価地点だと考えれば、その1点をできるだけ評価を高めたいと考えて、自分の今できる最大限をぶつけたいと考える。 例えば、あるイベントレポートの記事があったとする。提出がグーグルドキュメントであれば、そのURLを納期までに担当者に送信すれば良い。そしてそのURLをクリックすると、私の成果として評価されるのだ。そこまで考えて、眠たくなった目をこすり、近くのコンビニエンスストアに逃げるのを辞めて、また目の前の原稿に向き合うのである。 もし目の前に広がっているテーマに正解があるとするならば、それ以上に簡単なことはない。あらかめ引かれたレールがあり、そのレールをなにも考えずただ歩いていくだけの作業であればそんなに簡単なことはないし、そんなに素晴らしいことはない。だが、そうではないのが文章を書く世界である。 なぜなら、文章とはその人間にしかない主張を発信することだからである。なにを勧めるのか、なぜそれが素晴らしいのか、誰に届いてほしいのかは、人それぞれ異なる。だから書くことは、頭脳をもつヒトであればみんなが簡単に実現できることなのである。 したがって、文章に正解はないのだ。正解がない時間だからこそ、迷い、悩み、苦しいのは当然なのだと思う。 この本を読んでみようを思った動機 この本は、「宣伝会議 編集・ライター養成講座総合コースのオンライン体験会」で紹介されていた。 登壇者の…