人気者のチューヤン まだ就学前の、幼い頃だったと思う。周りの人からチューヤンと呼ばれているおじさんがいた。いつもふらっと現れて、近所をうろついていく。あまり覚えていないが、家の前で遊んでいた私たち子どもたちともいろいろ話していたのだろう。私はというと、チューヤンの姿を見つけると家に帰り、祖母に来ていることを告げていた。すると、祖母は家の中にあるお菓子を集めて半紙で包み、私に手渡す。 「チューヤンにあげてきて」。 それがいつもの行動パターンだった。なにかを手渡すのはうちだけでなく、近所の友だちの家からもいろいろ持ってきていたように思う。それは、子どもであったりおとなであったり。 チューヤンは、ある意味、人気者だった。 弱者だったチューヤン おとなになってから考えてみると、今でいう“ホームレス”だったのではないか。ホームレスとしての住処はどこかにあり、気が向いたり、何か必要になったら、顔見知りの多いうちの周りに現れていたのだろう。 おそらく戦争の焼け跡に整備された町で、三軒長屋と呼ばれるような住居が建ち並ぶ下町の風情を残していた。呼び名は、チューヤンなのか、ちゅうやん、ちゅやん、なのか。実は、長年、「チューヤン」はホームレスのような暮らしをする人の当時の通称だと思っていた。だが、できる範囲で調べてみたが、そのような記述は見当たらなかった。由来は、名前なのか、仕事なのか、当時ホームレスのような人の総称だったのか。想像はふくらむ。以前は近所に住み、どの家とも家族ぐるみの付き合いがあったが、何かの理由でそこを離れなければならなくなり、顔見知りのうちの祖母ををはじめ、いつのまにかみんなが心ばかりの施しをするようになった。 または、何かの行商で度々訪れていたことから、(これもうろ覚えだが、当時は、花、パン、ぽんぽん菓子などを屋台を引いて売りに来ていた)近所では誰もが知る人気の商売人だったが、これも何かの理由で商売ができなくなり、以前行商していた町を訪れている。 何れにしても、私が知るチューヤンは“弱者”だった。 にぎやかで、平穏な毎日 町の人たちは拒絶するのではなく、受け入れていた。彼がふらっと現れると歓待するわけではないが、ごく自然にそれぞれのできる範囲で施しを行う。次にいつ来るのか尋ねることもなければ、現状を共に憂うわけでもなかった。 そんな人もあんな人も居て当たり前。みんなでちょっとずつ助け合った…