葬儀社は自分たちで選べる?
平成31年が時を刻んでわずか3時間34分後、新しい年の日の出を見ることなく、父は他界した。年末に緊急入院、ICUに入った時点で覚悟はできていたが、年が明けてまもなく、病院から「呼吸が弱くなってきた」との連絡があり、まさに取るものももとりあえずの状態で病院に向かった。
死亡宣告が行われてすぐに看護師から葬儀社に連絡して遺体を引きとるように告げられた。時間は午前4時前。葬儀社? この時間につながる? 来てくれるの?
看護師から分厚いファイルを渡され、その中からある葬儀社に電話をした。母が以前、定期的に前金を払い込んでいた大手葬儀社のことをぎりぎり思い出したのだ。
後から聞いた話によると、葬儀社を選べるだけ幸運らしい。病院によっては、葬儀社を選ぶように言われることもなく、安置室に病院と協力関係にある葬儀社が「御愁傷様です」と迎えに来ていることも多いという。
一旦葬儀社に遺体を渡してしまえば、そこからはあちらのペース。それでなくても、家族はまあまあ頭の中は混乱した悲しみの中、もう亡くなっているのに少しでも良くしてあげたいという気持ちだけはどんどん膨らんでいく。そして、ちょっと世間体も頭をよぎり、選択を迫られた時に良い方(高い方)を選んでしまうのだ。
葬儀社の人は営業しているだけなのだ。
それは通常の時間帯のオフィスの打ち合わせ室と同じ状況なのかもしれない。しかし、葬儀社とのやりとりの場合、「考えてみます」「上司に相談してみます」は一切言えない。その場で判断しなければならない。決断の猶予があるのは、香典返しや花、食事などの“数”だけだ。
人生や仕事において豊富な経験があると自負する人でも、一つずつちょっとずつ迷う難しい選択が続き、精神的にはちょっとしんどい状況になるのではないだろうか。
火葬場の違和感ありの業者
営業を仕掛けてくる人は葬儀社だけでなく、火葬場にもいた。
父を火葬するために見送り、一旦火葬場を引き上げようとした時、係りの人に「骨壷の確認」をするために、別の建物に移動するように促された。骨壷はすでに葬儀社との最初の打ち合わせで依頼済みだったので、それが間違いないか、まさに確認するだけだと思っていた。
ところが案内されたのは、ガラスケースに大小さまざまな骨壷が並べた、まるで地方の寂れた観光地の土産物屋のような店だった。
どう見ても周りには黒服を着た人しかいない中で、店の中の主人は派手なカーディガンを着用していた。その男性は、私たちが葬儀社に発注した骨壷は小さく、全ての骨は拾えないからとより大きな骨壷を勧めた。代金は元の骨壷との差額分だけでいいと言う。しかし、最初に決めたものより3、4倍くらい大きな骨壷にしなければ、何れにしても全ての骨は拾えないのだ。
今さっき、父の遺体に別れを告げ、あの扉を閉める瞬間を見たばかりだった。葬儀では泣かなかった私も、父の形が無くなるこの時だけは、目を固くつぶって真下を向き、現実を受け入れなくてはならなかった。全部は拾えないことはわかっていても、少しでも多く拾いたい、拾ってあげたいと家族が思うのは当然だろう。
打ち合わせの段階で葬儀全体にかなりの費用がかかっていた。例え数万円でも節約したい気持ちもあった。でも、ここでの決定権は妻である母にあると思っていた。案の定、迷いのあった私たちが止めないことから、母はいろいろな理由をつけて、ひとまわり大きな骨壷を決めた。
代金はあとで骨を拾う時に現金で支払うように言われた。今考えれば、骨となった父のすぐ横で私たちは差額分を支払い領収証をもらうという、何とも不細工なことをやってしまっていた。親戚からこのやりとりが見えないように自分の身体で視界をさえぎった。
この後すぐにこの茶番を冷静に受け止め、反省もした。市が運営する火葬場にこんな業者が暗躍しているとは思いもしなかった。葬儀の全てを決定し終えたという安心感の上に、最も心が弱っている時を突かれたのだろう。「少しでも多く骨を拾ってあげることができた」と言い聞かせることが、今でも時々ふっと浮かぶ怒りと愚行に対する言い訳になっている。
こんな時でさえ、油断は禁物、なのだろうか。
葬儀という不思議な儀式
人は死ぬ日を選べない。1月の1、2日は火葬場が休みということもあり、3日以降の葬儀場、火葬場はラッシュ状態だ。私たちは葬儀までの4日間、長い正月を過ごした。
檀家である寺の僧侶は、その場で思いついたかのような法話を述べ、わかりやすい戒名をつけて、もう一度葬儀ができそうなお布施の金額を告げた。四九日法要の日取りも、他の法要と効率よく回れるようにスケジューリングされた。
久しぶりに会う親戚とゆっくり話す時間はあまりなかった。葬儀までと当日は、段取りとタイムスケジュールのチェック、つまり仕事をこなすように過ごした。
母は「良い葬式だった」と繰り返すが、何も答えることができない。本当にこのような段取りや様式が全て必要なのだろうか。
商売と法と宗教に縛られ、世間体も気にしなければならない葬式。本当はもっとシンプルに素直に死者との別れの時間を泣いて笑って過ごしたいと思う。最近は、費用の高さや高齢化などもあり、小規模な家族葬や葬儀を行わず火葬する直葬という形をとる人も多いと後で知った。
葬儀に関する疑問や課題を解決するチャンスはほぼ無いといっても等しい。一生のうちに、葬儀を取り仕切ることはほんの数回で、その機会は続けてあるわけではない。忘れてしまうし、物価やシステムが変化している場合もある。
葬儀とはなんとも厄介で不思議な儀式だ。