さて、旅に出る際にまず最初に下調べしなければならないのは、旅先の政府筋の観光省の公式ホームページです。 情報化社会の中で、空き時間に短時間で検索する事が出来る、素敵なビーチの写真や、インスタ映えする写真ばかり眺めて うっとり憧れているだけでは、自分と、同行する家族などの身の安全は守れません(^^; 「旅行会社にお任せするからいいわ~」という方もいらっしゃるでしょうが、自分で考えなければいけません。 旅行先でトラブルにあった場合、自分で説明しなければなりませんし、誰も助けてはくれません。 その訓練が、日本人は出来ていない方がとても多い気がします。自分の身は自分で守る。実はとても当たり前の事。 普段、社会のシステムに守られ過ぎている のかもしれないですね。 私が母とベルギーに旅行に行った時の事です。何故か母のスーツケースだけ出てきませんでした。 オランダでトランジットした事を思い出して、手荷物係のところに行って、英語で必死に説明しました。 そのお陰で、割と早くにオランダにスーツケースが置き去りになっている事が分かり、結局翌朝には届いたのですが、 もしあのままボーッとしていたら、探すのに夜中までかかった事でしょう。自分しか分からない事情、可能性はどんどん発信すべきです。 しかもすぐさま。こういう思いは、常に言葉の通じる国でのんびり生きていたら、一生気付けない事かもしれません。 単一民族で、「周りから浮かないように」、「上に従うように」、「目上のものには敬意を払わなければならない」 という、島国である日本らしい独自の教育を受け続けた結果、半数以上の人が自分で発信する事よりも、他人に合わせていれば上手くいく、 むしろ自分らしさは隠しておく方が生き易いと思って、周りに調和して生きる事を最初に覚えるのは当然の事かもしれません。 でも自分より目上の方の人生観に敬意を払うのと、上からの指示は絶対であると盲目に思い込むことは異なります。 学校なら先生、仕事なら上司に服従しないと殴られたり、不利益な目を被る時代は終わりました。 現在、テクノロジーの変化という次世代の技術(ツール)を手にした若者達が、日本における特殊なパワハラの現状にNO!を突き付け始めました。 日本のテレビでは日々、スポーツ界で最高の成果を収める為に「監督という絶対的な存在」が示し続けた「絶対服従教育の是非」が 選手たち(オリンピックの金メダリストまで)の告…
QUEEN フレディーマーキュリーが全身で表現していたのは、多様性への寛容では無かったか 彼らはもともと完璧だったのでしょうか? そもそも完璧って何? 人種?血筋? 代々続く名家? お金持ちである事? いいえ、違います。彼らはむしろ、対局の場所に居た、「はぐれ者」とも言えるほど普通の人々だった筈です。 フレディーも勿論、厳格な父親から認めて貰えないような、愛を求める孤独な青年でした。だからこそ、人の心の痛みが分かるのでしょう。人々の心を動かすような、彼の内面の葛藤や苦しみを表す哀愁に満ちた歌を創れたのです。 フレディー・マーキュリー、彼こそが、世界の偏見と非寛容の中で傷付いた1人の小さな少年だったのです。 そしてその『怒りや悲しみが爆発的なエネルギー』となって、音楽や芸術を伴って外に出て来た時、人はそれを「天才」と呼ぶのでしょう。 改めて芸術や音楽を考える 芸術とはそういうものではないでしょうか? ピカソがスペイン内戦中にドイツ空軍によって行われた都市ゲルニカの無差別爆撃にショックを受けて、怒りと共に製作した「ゲルニカ」然り。 異端審問所に呼ばれながらも、目を覆いたくなるような戦争の惨状からゴヤが描いた「我が子を喰らうサトゥルヌス」然りー。 ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクが描いた「叫び」然りです。 ムンクは幼少期に母親を亡くし、思春期に姉の死を迎えるなどして、病気や死について考えざるを得ない状況下にあったと言われています。 自分にしか出来ない事、それを追求した者達にしか見えない世界があります。本当の芸術は、時代へのアンチテーゼや自身の苦しみの体験から産まれる事が多いのです。 戦争や、正義を振りかざすエゴイズム、矛盾、人間同士の醜い覇権争い、それにより罪の無い者達が残虐に殺されたり、弱い物が犠牲を強いられる恐ろしい惨状ー。惨状の形は変わっても、人間社会の根本はこんなにも、まだ変わっていないのです。人間に産まれた業とも言えるものかもしれません。時代はこんなに変わっても、人間社会に生きる苦しみの根本は、何も変わっていないのです。 QUEENの音楽は、爆発的なパワーと圧倒的な芸術の共存 それは誰もが認めるところでしょう。フレディーの持つ圧倒的な美意識と、人間社会で苦しみ歪められた繊細な感情が歌になっているからこそ、彼そのものを表していたのです。 『自分の弱さを表現する』事を恐れず、世界に挑戦し続けた…