QUEEN フレディーマーキュリーが全身で表現していたのは、多様性への寛容では無かったか
彼らはもともと完璧だったのでしょうか?
そもそも完璧って何?
人種?血筋?
代々続く名家?
お金持ちである事?
いいえ、違います。彼らはむしろ、対局の場所に居た、「はぐれ者」とも言えるほど普通の人々だった筈です。
フレディーも勿論、厳格な父親から認めて貰えないような、愛を求める孤独な青年でした。だからこそ、人の心の痛みが分かるのでしょう。人々の心を動かすような、彼の内面の葛藤や苦しみを表す哀愁に満ちた歌を創れたのです。
フレディー・マーキュリー、彼こそが、世界の偏見と非寛容の中で傷付いた1人の小さな少年だったのです。
そしてその『怒りや悲しみが爆発的なエネルギー』となって、音楽や芸術を伴って外に出て来た時、人はそれを「天才」と呼ぶのでしょう。
改めて芸術や音楽を考える
芸術とはそういうものではないでしょうか?
ピカソがスペイン内戦中にドイツ空軍によって行われた都市ゲルニカの無差別爆撃にショックを受けて、怒りと共に製作した「ゲルニカ」然り。
異端審問所に呼ばれながらも、目を覆いたくなるような戦争の惨状からゴヤが描いた「我が子を喰らうサトゥルヌス」然りー。
ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクが描いた「叫び」然りです。
自分にしか出来ない事、それを追求した者達にしか見えない世界があります。本当の芸術は、時代へのアンチテーゼや自身の苦しみの体験から産まれる事が多いのです。
戦争や、正義を振りかざすエゴイズム、矛盾、人間同士の醜い覇権争い、それにより罪の無い者達が残虐に殺されたり、弱い物が犠牲を強いられる恐ろしい惨状ー。惨状の形は変わっても、人間社会の根本はこんなにも、まだ変わっていないのです。人間に産まれた業とも言えるものかもしれません。時代はこんなに変わっても、人間社会に生きる苦しみの根本は、何も変わっていないのです。
QUEENの音楽は、爆発的なパワーと圧倒的な芸術の共存
それは誰もが認めるところでしょう。フレディーの持つ圧倒的な美意識と、人間社会で苦しみ歪められた繊細な感情が歌になっているからこそ、彼そのものを表していたのです。
『自分の弱さを表現する』事を恐れず、世界に挑戦し続けたフレディー没後27年の今(2018年)、私達は、芸術家や世界のアーティストたちが訴え続けていた物を再び私達は失いかけ、混迷の世界で苦しんでいる気がしてなりません。
苦しみから圧倒的な創造が産まれるという事実を、私達はもっと意識してみても良いのでは?
今こそ、各個人がもっと自分の葛藤を表現をすべき時ではないでしょうか?
大切なのは、苦しみを隠す事ではなく、表現する事なのではないでしょうか??
それを怠ると、まるで世界はうまく回っているようにすら映ります。ちっとも上手くまわってなんかいません。苦しむ人々の多さに、私達はいつまで目をつぶっているのでしょう。
偽物の幸福に騙されず、人間とは弱い者だという根本に立った社会、そして助け合う世界、隣人の手を取り合う勇気が何よりも必要なのです。
そして、今あなたが抱えている『あなた自身の苦しみ』を、創造に変えてみませんか?そこに、あなたにしか表現できない世界が、きっとある事を、私は信じています。
フレディ-の人生から改めて考えた 本当に必要な人間関係はいつ築く?
人間関係は、『自身が人生で成功する前に築いている事』が、実は大事なのだという事に気付かされます。
何故なら、お金が大きく絡むと人間は相手を信じられなくなるし、成功してから出会う人々はお金目当てという事もあったり、最初はそのつもりが無かったとしても、ついお金に目が眩んで欲を出してしまう人がいるなど、弱くて迷い易い人間は、とても不確かな存在だからです。
特に、フレディーの抱えていたセクシャル・マイノリティーの問題は、当時としてはしては今ほど社会的に認められていなかった為に、人々からの好奇の視線や偏見の中で本当の人間関係を築く、そのバランスを取る事は相当困難だったのではないかと気付かされます。
若き日のフレディーの恋人 メアリー・オースティン
メアリー・オースティンは、フレディーの若き日の恋人で、洋服屋の店員をしていました。バンド仲間のつてから出会い、フレディーと一緒に古着を販売して資金稼ぎをしたり、若き日を共に過ごし、クイーンが売れていく中、彼を支えた人物でした。
(Ⅳに続く)