世界最大のムスリム人口さて、イスラームという言葉を聞いてイラクやイラン、サウジアラビアなどの中東地域を連想される方が多いかと思いますがそれらの地域の中に世界最大級のムスリム人口を抱える国はひとつとしてありません。それではどの地域の国が最大のムスリム人口を抱えているかということなのですが実は東南アジアにあります。答えはインドネシアです。 インドネシアは総人口においても世界第4位ともともとの人口も多く、それだけあってムスリム人口も世界最大規模というわけでもあります。今回はそんな世界最大のムスリム人口を抱えるインドネシア国内最大級のモスクを訪れましたので紹介させていただきます。 マスジド・イスティクラル 今回紹介するインドネシア最大のモスクの名前はマスジド・イスティクラル(Masjid Istiqlal)で、首都ジャカルタの中心部にあります。あまり観光名所の多くないジャカルタ市内で貴重な観光資源になっていると共にムスリムたちの大切な祈りの場でもあります。そんなマスジド・イスティクラルですが実は極めて異才を放つモスクでもあります。 クリスチャンが設計したモスク マスジド・イスティクラルは戦後にイスティクラル(アラビア語で独立の意)を象徴するモスクを建造しようということでできたモスクなので歴史は浅いです。 それでもインドネシアのみならず東南アジア最大のモスクとして異彩を放つマスジド・イスティクラルですが実は設計したのはなんとクリスチャンでした。設計を担当したのはフレデリック・シラバン(Frederich Silaban)というスマトラ島出身の建築家で、間もなくインドネシアの建築界を代表する一人になりました。 事実としてスマトラ島のバタック人(キリスト教徒が多い)のようにムスリム以外の人口も多いので多民族国家としての性格がこのモスクにも表れたと言えるでしょう。 地味だけど合理的な造り 中東や中央アジアなどのモスクは何かと真珠のような美しさを誇るものなど、とにかく目立つ要素が多いですがインドネシアは世界最大のムスリム人口を持ちながらモスクは基本的に地味であまり目立ちにくい存在になりがちです。マスジド・イスティクラルにしてもどちらかというと地味なモスクなのですが実は気候に合わせたとても合理的な造りになっています。 ジャカルタはどうしても高温多湿な気候になるので内部の涼しさが最優先されます。それを実現す…
※重要※2020年3月21日現在マレーシアは外国人の入国禁止措置をとっています。 新型コロナウィルスのせいでまともに外に出ることすらかなわないという人が急増中です。 外出自粛など、こうなると確かにどうしようもないですからね。そうであっても世界には興味を引くものが数えきれないほどあるのもまた事実です。沈静化したらそんな場所を早速訪れたいものです。 それはそうと、先月マレーシアを訪れた際に大変興味深いモスクが南部ジョホール州都のジョホールバルにあったのでさらに少々調べてみました。そのモスクの名はアブバカールモスクです。 外見はモスクというよりヨーロッパ式の宮殿? 何も言われないでこの写真を見せたらむしろヨーロッパ式の宮殿と答えたくなるところですが、これぞ今回紹介するアブバカールモスク(正式名称はMasjid Negeri Sultan Abu Bakar)です。このような外観がヨーロッパ式のモスクは世界的に極めて希少な存在で、このような外観からマレーシアで最も美しいモスクのひとつとして賞賛されています。 それにしてもモスクというと大きなドーム状の屋根があるアラブもしくはオスマン、ペルシャ様式の建築のイメージが先行しますがどうしてここだけ異端児と言っても過言ではないモスクができたのでしょう?そこにはマレーシアの歴史が深くかかわっています。 1892年のマレーシアと英国ビクトリア様式 さて、1892年という数字ですがこれは建設されたときの年になります。1892年というとそこから18年遡ると1874年に英領マラヤが成立しています。つまり、マレーシアはこの時すでに英国統治下にあったことを示しています。 英国統治は第2次世界大戦時の1942年に一時旧日本軍により放逐されますが(その後さらにジョホールバルからゴムボートでさらにシンガポールから英軍を放逐したのも有名です)戦後返還されると1957年まで統治が続きました。 この英国統治こそ重要なキーワードのひとつになります。 冒頭部でヨーロッパ式の宮殿のように見えると述べましたが実はこの建築様式そのものが宗主国だった英国からもたらされたものです。 敢えて専門用語を用いるとビクトリア様式を採用しており、これは1837年から1901年にかけて在位したビクトリア女王の時代に確立されたものです。厳密には中世のゴシック様式に当時画期的だった近代素材をブレンドさせてできた…
悪名高いコロナが収束した暁にまた訪れたいと考えている国のひとつに中央アジアのカザフスタンがあります。 昨年早春に訪れた際、文化的にはウズベキスタンと言っても過言ではない南カザフスタンのとある世界遺産の廟建築を見学したのですが一部修復中だったのでまだ見れてない箇所が残ってるからです。特に見ておきたいのが美しい巨大な青いドームなのですがそれもまた当時は修復中でした....。 今回取り扱う世界遺産というのは中央アジアのメッカとは言われるものの未完のまま終わったホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟という廟建築で、南カザフスタン州都シムケントから鉄道で3時間ほど西へ進んだテュルキスタンにあります。 ホージャ・アフマド・ヤサヴィとは何者? ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟を知る上でまずは知っておきたい人物が廟の名前の由来となっているホージャ・アフマド・ヤサヴィー(Khoja Ahmad Yasawi)という人物です。 平たく言えば「イスラム学者」の一言でまとめられそうなのですが実際のキャリアは詩人でした。そうとは言ってもヤサヴィーは現在のウズベキスタンを拠点に中央アジアで広く宣教活動をし、カザフ人などの中央アジアにおけるテュルク系遊牧民のイスラム化に大きな影響力を持った人物でもありました。 廟のあるテュルキスタン(当時の名称はヤシ)もヤサヴィーが移住してから本格的に都市開発が始まった場所で、ヤサヴィーが没した場所でもありました。同様にここに葬られたことから「テュルクの聖なる土地」(ヤサヴィー本人もテュルク系であるため)という意味を込めたテュルキスタンという都市名になりました。 ティムール朝が本格的な廟を建立しようとするものの... ヤサヴィーの死後約200年が経過してティムール朝が勃興すると、初代君主であるティムールが当時あったヤサヴィーの廟の増築を命令します。ヤサヴィーの生前のキャリアとヤサヴィー自身が遊牧民から広く支持を集めている人物であったことも要因にあり、加えて当時敵対勢力圏に組み込まれていた地域の遊牧民からも支持を集めるという狙いもあったと考えられています。 こうして小さな廟からモスクや図書館も備えた機能的な大きな廟へと生まれ変わるものの、ティムールが死亡するや否や建設事業は結局打ち切りになりました。 写真は廟の南門を映したものですが、最初の写真のような青いタイルはなく、基礎部分がむき出しの…