※重要※
2020年3月21日現在マレーシアは外国人の入国禁止措置をとっています。
新型コロナウィルスのせいでまともに外に出ることすらかなわないという人が急増中です。
外出自粛など、こうなると確かにどうしようもないですからね。そうであっても世界には興味を引くものが数えきれないほどあるのもまた事実です。沈静化したらそんな場所を早速訪れたいものです。
それはそうと、先月マレーシアを訪れた際に大変興味深いモスクが南部ジョホール州都のジョホールバルにあったのでさらに少々調べてみました。そのモスクの名はアブバカールモスクです。
外見はモスクというよりヨーロッパ式の宮殿?
何も言われないでこの写真を見せたらむしろヨーロッパ式の宮殿と答えたくなるところですが、これぞ今回紹介するアブバカールモスク(正式名称はMasjid Negeri Sultan Abu Bakar)です。このような外観がヨーロッパ式のモスクは世界的に極めて希少な存在で、このような外観からマレーシアで最も美しいモスクのひとつとして賞賛されています。
それにしてもモスクというと大きなドーム状の屋根があるアラブもしくはオスマン、ペルシャ様式の建築のイメージが先行しますがどうしてここだけ異端児と言っても過言ではないモスクができたのでしょう?そこにはマレーシアの歴史が深くかかわっています。
1892年のマレーシアと英国ビクトリア様式
さて、1892年という数字ですがこれは建設されたときの年になります。1892年というとそこから18年遡ると1874年に英領マラヤが成立しています。つまり、マレーシアはこの時すでに英国統治下にあったことを示しています。
英国統治は第2次世界大戦時の1942年に一時旧日本軍により放逐されますが(その後さらにジョホールバルからゴムボートでさらにシンガポールから英軍を放逐したのも有名です)戦後返還されると1957年まで統治が続きました。
この英国統治こそ重要なキーワードのひとつになります。
冒頭部でヨーロッパ式の宮殿のように見えると述べましたが実はこの建築様式そのものが宗主国だった英国からもたらされたものです。
敢えて専門用語を用いるとビクトリア様式を採用しており、これは1837年から1901年にかけて在位したビクトリア女王の時代に確立されたものです。厳密には中世のゴシック様式に当時画期的だった近代素材をブレンドさせてできたようなものですが、奇しくもこのモスクが建設された時期はビクトリア女王の時代に重なっていました。
スルタンアブバカールとジョホールバルの近代化
名前の由来となったスルタンアブバカールはジョホールの第21代スルタンで、1886年から晩年1895年までの7年間在位していました。
近代ジョホールの父とも呼ばれていますが、この時既に英領マラヤが成立しているのに不思議ではないですか?
実は当時、英国統治下にはあったものの自治権は健在でした。これはスルタンアブバカール自身は外交上手であったことにも由来しており、さらには英国本国のビクトリア女王とも深い交友関係があったことも知られています。このようなこともあって特にジョホールの自治は強固なものだったそうです。
また、外交上手であるのみならずジョホールの近代化にも重要な貢献をしています。
その近代化に向けたキャリアパスはスルタンになる以前から高官の立場で進めており、その際に西洋式の近代インフラの整備を一気に推し進めたのも有名です。また、その他特筆すべき政策は1840年代に移住してきた南方中国移民への農業政策で、これが現在の多民族国家としてのマレーシアを作った要素のひとつになりました。
そして1892年、ジョホールの近代化を象徴するものとして建造するよう指示されたのが例のアブバカールモスクになります。
その近代化の象徴として採用したのが英国ビクトリア様式だったのでしょうが、残念ながら存命中に完成を見届けることはなく、死後5年の1900年に完成しました。その際に後を継いだスルタンイブラヒムが故アブバカールの名をモスクにつけたそうです。
小高い丘から対岸シンガポールを見下ろす癒しの場所
ジョホールバルの中心部からやや外れた場所にある丘にモスクは立っており、そこからは対岸のシンガポールを眺めることができます。
モスクの内部は信者でないと入れませんがその外であれば自由に散歩できます。
ここは静かで風通しも非常にいい場所で対岸を眺めながら木陰でくつろいでいたら気がつけば昼寝してました(笑)。他にも何人か昼寝してる人がいましたね。
なるほど、モスクが美しいだけにとどまらず癒しの場所でもあるのですね。