悪名高いコロナが収束した暁にまた訪れたいと考えている国のひとつに中央アジアのカザフスタンがあります。
昨年早春に訪れた際、文化的にはウズベキスタンと言っても過言ではない南カザフスタンのとある世界遺産の廟建築を見学したのですが一部修復中だったのでまだ見れてない箇所が残ってるからです。特に見ておきたいのが美しい巨大な青いドームなのですがそれもまた当時は修復中でした....。
今回取り扱う世界遺産というのは中央アジアのメッカとは言われるものの未完のまま終わったホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟という廟建築で、南カザフスタン州都シムケントから鉄道で3時間ほど西へ進んだテュルキスタンにあります。
ホージャ・アフマド・ヤサヴィとは何者?
ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟を知る上でまずは知っておきたい人物が廟の名前の由来となっているホージャ・アフマド・ヤサヴィー(Khoja Ahmad Yasawi)という人物です。
平たく言えば「イスラム学者」の一言でまとめられそうなのですが実際のキャリアは詩人でした。そうとは言ってもヤサヴィーは現在のウズベキスタンを拠点に中央アジアで広く宣教活動をし、カザフ人などの中央アジアにおけるテュルク系遊牧民のイスラム化に大きな影響力を持った人物でもありました。
廟のあるテュルキスタン(当時の名称はヤシ)もヤサヴィーが移住してから本格的に都市開発が始まった場所で、ヤサヴィーが没した場所でもありました。同様にここに葬られたことから「テュルクの聖なる土地」(ヤサヴィー本人もテュルク系であるため)という意味を込めたテュルキスタンという都市名になりました。
ティムール朝が本格的な廟を建立しようとするものの...
ヤサヴィーの死後約200年が経過してティムール朝が勃興すると、初代君主であるティムールが当時あったヤサヴィーの廟の増築を命令します。ヤサヴィーの生前のキャリアとヤサヴィー自身が遊牧民から広く支持を集めている人物であったことも要因にあり、加えて当時敵対勢力圏に組み込まれていた地域の遊牧民からも支持を集めるという狙いもあったと考えられています。
こうして小さな廟からモスクや図書館も備えた機能的な大きな廟へと生まれ変わるものの、ティムールが死亡するや否や建設事業は結局打ち切りになりました。
写真は廟の南門を映したものですが、最初の写真のような青いタイルはなく、基礎部分がむき出しのままです。本来ならここも美しい青い空間になるはずだったのでしょうが、それでも機能した点には感心です。
なお、未完とは言えども現存するティムール建築の中では最大級のもので、実はここで使われた技術は旅人のハートを鷲掴みにする青の都サマルカンドの建築物にも受け継がれています。
中央アジアのメッカ
確かに遊牧民の支持を集めたヤサヴィーではありましたが、廟が未完なまま中央アジアのメッカと呼ばれるようになったのを不思議に感じずにはいられません。
しかし、建設が打ち切りになったのはあくまでティムール以降の統治者が関心をもたなかっただけであって、信者としては中央アジアに本格的にイスラム教を伝えた人物である以上、聖人として尊敬対象になっていました(ただし、スンニ派のワッハーブ派のように聖人信仰をタブーとしている宗派もあります)。
このようなヤサヴィーへの尊敬からいつしかヤサヴィー廟へ3回参詣すればメッカ巡礼以上の善行になると言われるようになりました。
こうしてこの廟は中央アジアの草原地帯においてメッカに相当する地位を得たわけで、ロシア帝国に併合されてからも宗教そのものがタブーになる赤色革命直前まで多くの参詣者でにぎわいました。
観光事情
執筆している時点ではコロナが収束していない以上、観光どころではないです。とは言え、収束したときにお役に立てればとも考えているので覚えている範囲で共有します。
まず、内部ですが入場料(数百円程度の範囲)を払ってからの見学で、写真撮影は原則禁止です。とは言っても実際には撮影している人が多かったですがあくまでもルールは守りましょう。英語も殆ど通じない土地柄トラブルになると大変面倒です。
アクセスですがシムケントからマルシュルートカ(ミニバス)に乗るか、もしくはテュルキスタン市街地から歩いて20~30分です。ちなみに筆者はテュルキスタンの民泊に泊まっていたので後者を選びました。
最後に周辺観光ですが前回の記事を参考にしていただけると幸いです。
それにしてもコロナの収束が待ち遠しい限りです....。