現代社会は、たくさんの便利なものが溢れています。 日常生活の”いいね”を共有できます。 民泊を手軽に利用することもできます。 家で一言、「アレクサ、音楽かけて」と言えば、好きな音楽をかけてくれるようにもなっています。 でも、それだけ便利で人と簡単に繋がれる社会になっているのに、なぜか”生きづらさ”を感じてしまいます。 便利になり過ぎたからでしょうか。 既読無視を恐れないといけなくなったからでしょうか。 もちろんそうした、テクノロジーの発展によって生じた弊害で、”生きづらさ”を感じていることもあると思います。 でも、”生きづらさ”は、そうしたモノやテクノロジー以外のところに根本の原因があると思っています。 それは、”弱さを受け入れられない弱さ”にあるのではないでしょうか。 *** そもそも弱さとは何か。少しだけ考えてみましょう。 goo辞書にはこのように記述されていました。 ”力や技が劣っていること” この捉え方であれば、弱さを生み出しているのは、その人自身であると解釈できます。 でも、弱さはその人自身が生み出したものではなく、社会が生み出したものだと思っています。 例えば、引きこもり。 学校では、強制的にクラスを分けられ、しかもその中で円滑な人間関係を作ることが要求されます。 人間関係を作ることが得意な人もいるでしょうし、得意と言えなくてもある程度人間関係を作れる人が大半です。 でも、そういった人たちと対照的に、人間関係を作ることが苦手な人もいます。その結果、学校に行くのが億劫になり、引きこもりという社会的弱者とされてしまう。 果たして、この引きこもりは弱いのでしょうか。 僕は、人間関係を作るのが苦手だという理由だけで、社会的弱者にしてしまう社会の方が弱いと感じてしまいます。 *** 弱さは、絶対的なものではありません。 他の人と比べた時に、苦手であるという個性にしか過ぎません。 その個性が”弱さ”というフレーミングをされて、弱さが生まれます。 時間をきちんと守れないこと、円滑なコミュニケーションを取れないこと、集中すると周りが見えなくなること、使ったものを元の場所に戻せないこと、お酒をやめられないこと、飽き性なこと。 こういったその人自身の持つ特性を、”弱さ”と一括りにしてしまう社会が弱いと感じてしまいます。 にも関わらず、社会が作り出した弱さを、個人に押し付けています。 この構造が、生きづらさを生んで…
いまの世の中、いろんな生き方ができます。 ブロガー、ユーチューバー、旅人、フリーランス、経営者・・・などなど。 もちろん、カンタンになれるわけではありませんが、それでも生き方の選択肢は人類史上、もっとも多いでしょう。 いろんな生き方ができるようになったのに、ほかの人と同じように生きることがもとめられます。 強制的にクラス分けされた小学校、中学校、高等学校と通い続けることが求められ、 大学に進学して、4年生になったら喪服のような、まっくろのスーツを身にまといながら、 何度もなんども「いらない」と言われて続けて、就職活動をして、 就職したら1日の大半を労働に当てながら、45年間働き続けることがもとめられます。 ほかのひとと同じような進み方をすれば生きていくことはできます。 これだけ手厚いレールを用意されているのは、めぐまれている言えるかもしれません。 それでも、それだけ手厚いレールを敷かれているのに、ほかの人と同じようにすすみ続けれない人もいます。 学校に行くことがいやだったり、会社に入って働き続けることが嫌だったり。 理由は様々ですが、進み続けることに疲れてしまう人がいるのは事実です。 そうして社会全体が生きづらさを感じるのは、 いろんな生き方ができるのに、ほかの人と同じように生きることを求められること、にあると思います。 *** 生きづらさを覚える社会を緩和するには、”よわい人”を受け入れられる社会になることではないでしょうか。 ここでいう”よわい人”とは、社会が作り出した弱い人です。 つまり、ほかの人と同じことができない人です。 ほかの人とおなじことをできない人をくくり出し、引きこもりやニートというような”よわい人”を生み出します。 そういった”よわい人”を受け入れられない社会というのは、”よわい人”が生きづらさを覚えます。 ただ、ここで述べたいことは、 そういう社会によって、”よわい人”だけでなく、社会を形成する人全員が生きづらさを覚えてしまうということです。 なぜなら、”よわい人”をくくり出してしまう社会というのは、違いを受け入れられない社会であり、社会を形成するひとりひとりが違いを受け入れられない社会であるからです。 *** ”よわい人”が生まれてしまうのは、ただの現象にしか過ぎません。本質的に問題であるのは、 ”よわい人”を生み出してしまう社会の構造にこそ原因があります。 つまり、違いをみとめられない社会です…
戦争が本格化し、美男もシラノも戦場に行きました。その間、美男には内緒でシラノは美男の名前で戦場から1日2回もロクサーヌに情熱的な手紙を書き続けていました。長年の想いを綴るのに、戦争中でも何の困難もありませんでした。溢れる想いを鳥の羽のペンにインクをつけてしたため、美しい筆記体で記していく手紙には、時々涙の跡やインクの滲み、興奮して急いで書くのであちこちにインクが垂れた跡があったり、指紋がついてしまったり、拳を握ってクシャッと折れてしまったり。それはそれは個性的で情熱的な手紙でした。それに気付いた美男は、彼女に想いを打ち明けるべきだとシラノに言いましたが、戦争で美男は帰らぬ人となってしまいます。ロクサーヌは、自分への情熱的な愛の手紙は全部、美男の夫からだったと信じたままー。シラノの彼女への想いは、永久に封印されてしまったのです。 喪に服するロクサーヌでしたが、歳をとってシラノと最後のささやかな昔話をしている最中に、手紙の主がなんとシラノだった事に今更気が付いたのでした。それが分かったロクサーヌは、鼻の事など気にもせず、ただシラノを愛しているから生きてくれと伝えましたが、そのささやかな最後の愛も叶わぬままシラノは天国に召されてしまいます。ロクサーヌの腕の中で静かに亡くなったシラノの上を通り過ぎていく風と、木々のざわめき。ロクサーヌの衣装はいつもドラマティックなまでに美しく、現実離れした視覚的美しさの中、極上の言葉が紡がれていく、極めて芸術度の高い映画です。 不便さの中にはドラマがあり、その人にしか紡ぐ事の出来ない言葉や振る舞いがあります。不便だからこそ、一生懸命会いに行ったり想いを伝えようとして、ドラマが産まれたのでしょう。 SNS 逆にSNSは、理不尽な事に我慢しないために協力し合う時には圧倒的な効果を発揮すると思います。証拠写真なり動画を撮り、しっかり正しく主張すれば、こちらが正しければもう我慢しなくて済むのです。私は実際に、長年両親が受けていた近隣の方からの嫌がらせを、動画を撮り文章を作り、警察に持ち込むことで解決してしまいました。両親は数十年我慢し続けていましたが、この新しい方法の導入で、半年足らずで解決に持ち込むことに成功しました。活用すべき場所で活用する、がSNS使用の新基準だと思えば、それ以外のところでは縛られない為の良い距離感も必要かもしれません。 筆記体と手紙の…
スペインのバル文化って? 皆さんはスペインの「バル」を知っていますか? 日本でも最近街中でよく「バル」の文字を見かけるようになりましたよね。バルと言えばワインやタパス(おつまみのような軽食)を楽しむ場所というイメージがありますが、スペインにおけるバルという存在は、私たち日本人が思うよりもずっと生活に密接に関わっているのです! 例えば、バルによってはランチ営業しているところもあるので、お昼ご飯を食べに行くこともできます。休憩時間には、コーヒーを飲んでくつろぐこともできます。仕事終わりには友達とビールを飲み、ビリヤードやダーツを楽しむことも…日本で言うところのカフェと居酒屋とバーを合体させたような存在、それがスペインのバルなのです。 スペインバルの面白文化①:バルは20時から開き始める! スペインは日本よりも食事の回数が多いというのをご存じですか? 一般的にスペイン人は一日に4~5回食事を摂る人が多いと言われています。そのためか、夕食の時間が遅く、21時頃に夕食を食べるのが普通だそうです。そのため、多くのバルは17時頃にはまだ休憩中であることが多く、日本の居酒屋の感覚でバルに入ろうとすると困ってしまうこともあるかもしれません。 また、スペインの友達と飲みに行こう!となると、「じゃあ21時集合ね!」と言われることが多いです。日本人からすると、21時開始の飲み会はかなり遅く感じますよね。日本の都市部だと学校や職場に電車で通う人が多いので、終電の時間を考慮して夕方開始の飲み会が一般的ですが、スペインでは近くのエリアに住んでいる人が集まることが多いので、21時から深夜1時くらいまで飲むのが普通です。 スペインバルの面白文化②:席は勝手に選んでいい! 日本だと、レストランや居酒屋に入ったら店員さんが来て席に案内してくれるのを入り口で待ちますよね。ですが、スペインのバルを始めとしヨーロッパの多くの飲食店では、自分で席を見つけて勝手に座るのが一般的です。メニューが置いていない席もあり、座っていいか不安になる人もいるかもしれませんが、他のお客さんが座っていない限り、どこでも座って大丈夫です。 店員さんがなかなか来ないこともありますが、基本的には座って待っていればいつかは来てくれます。メニューなどを持参せず、「飲み物どうしますか」と聞かれることもありますが、メニューが見たい場合は「メニューを見せても…
日本で評価されることは、もちろんのこと日本の文化伝統風俗価値観に照らしてのことだ。 もらってきた外からの価値観を表面的に取り入れる同調圧力によって押しやられてしまった人達の非日常な戦いを描き、そこに起こっている価値観の戦いの本質を理解しないまま、自分がもともと持っていた価値観を押しつぶして日常送っている人に対して、元々あった価値観に希望を見出しているかに見せかけて、実際にはその葬式を助けているのが日本の現在の文化・文学ではないだろうか。 これは非常に破壊的な言葉だ。でも日本に住む信仰を持つ人にとって、漠然と感じている矛盾に対する答えとなるだろう。 勿論日本に希望はある。殉教者達の信仰が確固とした礎だ。 溝は、イエス様の愛についての理解の深さによる。