戦争が本格化し、美男もシラノも戦場に行きました。その間、美男には内緒でシラノは美男の名前で戦場から1日2回もロクサーヌに情熱的な手紙を書き続けていました。長年の想いを綴るのに、戦争中でも何の困難もありませんでした。溢れる想いを鳥の羽のペンにインクをつけてしたため、美しい筆記体で記していく手紙には、時々涙の跡やインクの滲み、興奮して急いで書くのであちこちにインクが垂れた跡があったり、指紋がついてしまったり、拳を握ってクシャッと折れてしまったり。それはそれは個性的で情熱的な手紙でした。それに気付いた美男は、彼女に想いを打ち明けるべきだとシラノに言いましたが、戦争で美男は帰らぬ人となってしまいます。ロクサーヌは、自分への情熱的な愛の手紙は全部、美男の夫からだったと信じたままー。シラノの彼女への想いは、永久に封印されてしまったのです。喪に服するロクサーヌでしたが、歳をとってシラノと最後のささやかな昔話をしている最中に、手紙の主がなんとシラノだった事に今更気が付いたのでした。それが分かったロクサーヌは、鼻の事など気にもせず、ただシラノを愛しているから生きてくれと伝えましたが、そのささやかな最後の愛も叶わぬままシラノは天国に召されてしまいます。ロクサーヌの腕の中で静かに亡くなったシラノの上を通り過ぎていく風と、木々のざわめき。ロクサーヌの衣装はいつもドラマティックなまでに美しく、現実離れした視覚的美しさの中、極上の言葉が紡がれていく、極めて芸術度の高い映画です。不便さの中にはドラマがあり、その人にしか紡ぐ事の出来ない言葉や振る舞いがあります。不便だからこそ、一生懸命会いに行ったり想いを伝えようとして、ドラマが産まれたのでしょう。SNS逆にSNSは、理不尽な事に我慢しないために協力し合う時には圧倒的な効果を発揮すると思います。証拠写真なり動画を撮り、しっかり正しく主張すれば、こちらが正しければもう我慢しなくて済むのです。私は実際に、長年両親が受けていた近隣の方からの嫌がらせを、動画を撮り文章を作り、警察に持ち込むことで解決してしまいました。両親は数十年我慢し続けていましたが、この新しい方法の導入で、半年足らずで解決に持ち込むことに成功しました。活用すべき場所で活用する、がSNS使用の新基準だと思えば、それ以外のところでは縛られない為の良い距離感も必要かもしれません。筆記体と手紙の関係そういえば近年、英語のアルファベットの筆記体を日本の学校では教えなくなってしまったという事実をご存知でしょうか?どうやらこれは世界的な潮流のようですね。ドイツ語の筆記体でも同じ現象が起きているとか、少し調べただけでも沢山出て来ました。全世界的にパソコンが普及し、文字や手紙を書かなくなっているから、必要が無いそうです。それを聞くと、流石に手紙が好きでない人でも、ちょっと残念だと思いませんか?「必要だから」プログラミングを学び、「必要なくなったから」筆記体を教えなくなる。今では情熱のある英語の先生に偶然に出会うという稀有な出来事でもない限り、筆記体が書けなくて当たり前。そう、気付いてほしいのは、教育は、必要か必要でないかにいつも主軸が置かれているという事です。そんなの当たり前だと思う人と、それは悲しいねと思う人、二つに分かれると思うのですが、読者の皆さんはいかがでしょうか?必要なければ、自然に廃れる。「そんなの廃れていい。必要ないよ」という基準を、誰かが指示として出しているという事になりますよね。日本語が美しいのは、季節を大事にしている文化に育まれた美しい象形文字や、多種多様な季語、流れるような書道の文字などがあるからです。トメ、ハネ、はらいに至るまで美しさにこだわる人々に守られて来たからではないでしょうか。そう、どんなに忙しく雑な日々を送っていようとも、日本人の心の中には、美しい物、丁寧な心への憧れがどこかに根付いています。誰かが守っているから、まだ残っているのです。逆に誰かが継承しなければ、消え失せていく。英語、フランス語、ドイツ語・・みんな同じことです。今、全世界の各言語から、筆記体が消えようとしています。情熱的な何十枚にも及ぶ手紙を溢れる言葉でしたためているシラノの手紙が、羽のペンにインクの壺からインクを付けて、ブロック体でゴツゴツと不器用に書いてあったら、ロクサーヌの恋も産まれなかったでしょう・・。そして筆記体が無ければ、一日二回も長文の恋文を書く事は不可能だった。ほとばしる溢れる想いは、その瞬間にしかない宝物。それを、シラノは全て彼女に伝えたかったのです。一言一句、他の人には紡げない彼の長年の想いは、彼女の心を鷲掴みにしたのです。恋は不自由で儚い物。会えない、話せない、手段も無い、そんな中で無理やり紡ぎ出すから、鮮烈な印象を残すのではないでしょうか。英語圏では小学三年生くらいで筆記体を習っていたようですが、どんどん美しい文字を書く需要もこだわりも必要も無くなっているのは同じで、筆記体を読めない・書けない大人が多くなっているとか。「漢文で手紙書かないでよ!」みたいな事だから、当たり前なのかもしれませんが。。便利を追求すると、情緒もドラマもどんどん消えてしまうのですね。私の心の中は一般的には「無駄」と呼ばれるものの中で情緒を育んで来たので、無駄と回り道にこそ気付きや発見があり、本当の楽しさがある事を知っています。残念な気分です。私の親友が一時レタリングを習って、海外の物凄く古い本の表紙のような文字を手紙に交えて書いてくれた時は、その文字の美しさに感動しました。文字は文化です。各国の文字文化は、必要でないからと廃れさせるのではなく、むしろ芸術のレベルに引き上げてしまって、大切に守っていけたらいい。日本語の習字文字は外国人の皆さんがとてもお好きなように、英語や各言語の筆記体も芸術として、しっかり残していって欲しいのです。失われゆく物を敢えて大切にするところに、それを守ろうとした人々の、何かしらの精神性が残っていく。少々赤毛のアン的な発言ですが、不便は「想像の余地」を残します。想像の余地は、次に「創造の余地」を産みます。創造は、ゆとりと時間から生まれるー。ゆっくり大切な人達の事を考える時間は、私にとって最高の贅沢です。自分の心の中が、大切な人々の心と繋がっていると感じられ、とても幸せです。写真の整理などの時間に似ていると思います。誰にでもあるように生きていると孤独を感じる事もあるでしょうが、孤独を味わった事のある人は、他人を受け入れ、他人に優しく出来るのです。孤独や悲しみを知った人は、懐が深くなっていき、包容力が増すのは当然の事でしょう。各国の廃れゆく文字は必要云々に関わらず、「既に芸術」なのです。美しい文字を文化としてしっかり守っていきたいので、私のように字や言葉、紙や本などにこだわる人がいても、不思議はないのではないでしょうか?私にとって筆記体は、「未知の文化への憧れ」でした。こんなに美しい文字が自分にも書けるのだという自信と、英語の古い素敵な書物を読んでみたい!という願望から、中学生の頃の私は筆記体を書く事を楽しんでいました。私はフェイスブックのアカウントを閉じる決断をしました。数々の人にイイネ!を連打する時間よりも、自分にとって本当に大事な人との時間を少しでも増やし、自身の生き方にゆとりを持ちたい。自分にしか伝えられない想いは、少数の大切な人々とゆっくりと共有したいものです。私は変わっているのかもしれませんが、それは多様性と思って欲しいのです。現代を生きていれば当然、誰でも忙しい。手紙を書くのも受け取るのも面倒な方も多いと思います。実際私も最近は子育てに追われて、手紙など書いている暇もない毎日を過ごしています。現代人にとって手紙を書いたり、写真を整理する時間は、ほぼ「贅沢な時間」に属すると思います。そんな時間が昔の自分にはあったのだという感慨もあります。そしてまた今、目の前にある事を一生懸命にこなしていった先に、またきっとあの「極上に贅沢な時間」が残されている気がしてなりません。その時にはきっとまた私は、大切な人々の為に、一日以上かけて手作りの物を作り、更に一日以上かけて美しい手紙を作るのだと思います。「手紙」や「筆記体」は、一人の時間を楽しむ大人たちの為の、贅沢な文化になっていくのでしょうか。必要ないという舵を切られても、手紙や筆記体は大切にしていくべき「文化」だと私は考えています。