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でも、それだけ便利で人と簡単に繋がれる社会になっているのに、なぜか”生きづらさ”を感じてしまいます。
便利になり過ぎたからでしょうか。
既読無視を恐れないといけなくなったからでしょうか。
もちろんそうした、テクノロジーの発展によって生じた弊害で、”生きづらさ”を感じていることもあると思います。
でも、”生きづらさ”は、そうしたモノやテクノロジー以外のところに根本の原因があると思っています。
それは、”弱さを受け入れられない弱さ”にあるのではないでしょうか。
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そもそも弱さとは何か。少しだけ考えてみましょう。
goo辞書にはこのように記述されていました。
”力や技が劣っていること”
この捉え方であれば、弱さを生み出しているのは、その人自身であると解釈できます。
でも、弱さはその人自身が生み出したものではなく、社会が生み出したものだと思っています。
例えば、引きこもり。
学校では、強制的にクラスを分けられ、しかもその中で円滑な人間関係を作ることが要求されます。
人間関係を作ることが得意な人もいるでしょうし、得意と言えなくてもある程度人間関係を作れる人が大半です。
でも、そういった人たちと対照的に、人間関係を作ることが苦手な人もいます。その結果、学校に行くのが億劫になり、引きこもりという社会的弱者とされてしまう。
果たして、この引きこもりは弱いのでしょうか。
僕は、人間関係を作るのが苦手だという理由だけで、社会的弱者にしてしまう社会の方が弱いと感じてしまいます。
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弱さは、絶対的なものではありません。
他の人と比べた時に、苦手であるという個性にしか過ぎません。
その個性が”弱さ”というフレーミングをされて、弱さが生まれます。
時間をきちんと守れないこと、円滑なコミュニケーションを取れないこと、集中すると周りが見えなくなること、使ったものを元の場所に戻せないこと、お酒をやめられないこと、飽き性なこと。
こういったその人自身の持つ特性を、”弱さ”と一括りにしてしまう社会が弱いと感じてしまいます。
にも関わらず、社会が作り出した弱さを、個人に押し付けています。
この構造が、生きづらさを生んでいるのではないでしょうか。
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それでは、弱さを受け入れられない社会を作っているのは、なんでしょうか。
それは、社会を形成する人です。
もっというと、僕自身だと思っています。
僕は、職業柄、いろんな個性を持った方とお話しさせていただくことが多いです。
約束の時間に必ず遅れてしまう人。持ってきてと頼んだのに忘れてしまう人。不安を感じるとすぐに泣いてしまう人。
約束の時間に遅れてしまっても、頼んだものを忘れられても、人前で泣かれてしまっても、怒ったり注意したりすることはありません。
それでも、約束の時間を守れる人と遅れる人、というような、できる人とできない人、という分け方でその人たちを認識してしまいます。
「できる人」と「できない人」という分け方によって認識してしまう思想が形成されています。
この二分する捉え方は、弱さを受け入れられていない弱さと言い換えられます。
この弱さは唯一の、絶対的な弱さであるかもしれません。
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弱さを受け入れるために、弱さを自覚するというのは、矛盾しているように思えるかもしれません。
でも、弱さを生み出している構造が違います。
現代社会は、社会が作り出した弱さを個人へ押し付けています。
僕が伝えたいことは、その押し付けをしてしまう社会の弱さは私たち自身が生み出していていることを自覚するということです。
弱さを自覚して、個性の違いであることを認識することが、生きづらさを解消する上で大切だと思います。
現代社会の生きづらさは、弱さを受け入れられない社会の弱さから生じていて、さらにその弱さは社会を形成する私たち自身が作り出しているということです。
大事なのは、「できる」と「できない」という分け方ではなく、個性の違いであるという認識することです。