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社会

無言の怖さ──自分の行いは正しいのか、間違っているのか?

「どうして、誰も何も言ってくれないんだろう?」  職場で、ほかの場所で、そう思ったことはありませんか?  あなたが行ったことに対して、「よかった」も「悪かった」も言ってもらえない。特にアドバイスもなく、何も言ってもらえない。本当にこれでいいんだろうか? 自分が良かれと思って行っていることは、本当に正しいんだろうか? それとも……      この無言は、とても微妙な問題だと思います。というのは、人によって大きく分けて、2つの理由が考えられるからです。  1つは、あなたの行いに対して「それでいい」と思うからこその無言。  そしてもう1つは、あなたに「何を言っても仕方ない」と思うからこその無言。    あなたの行いを「それでいい」と思うから、何も言わない場合。  正しい行いだったからこそ、特に何も言わない。そのまま、次の作業へ促す。その行い次第によっては、ひとこと「いいね!」くらいは言ってくれてもよさそうな気もしますが、確かに、逐一、「それでいいんだよ」「よくやったね」などと反応していたら、いくら時間があっても足りませんし、仕事が進みません。  ですので、大抵の現場では、「OK」な行為に対しては大概、無言で進んで行きます。あなたの上司や同僚が何も言ってくれなかったとしても、それは大抵の場合、気にする必要もないでしょう。    でも、問題は後者の場合。  「この人に言っても仕方ないや」と思われてしまっている場合は、どうでしょうか。    きっと、あなたにも逆の経験があるのではないでしょうか。仕事をしていて、いくらアドバイスをしても聞き入れてくれない、あるいは理解してくれない人に出会ったことが。  そんな時、あなたならどうしますか? いくら言っても聞かないのなら、それ以上何か言っても時間の無駄。「もういいや」──そう思って諦めて、無反応でその人の行いを見過ごすのではないでしょうか。    ところが、これがもし、自分に対する無反応だとしたらどうでしょう。  自分が知らないうちに、周囲の人は冷静にあなたの行動を見て、分析して、「この人には何を言っても仕方ない、放っておこう」と諦めている。そして、いつの日かその諦めが、「もう、この人とは仕事をしたくない」という思いに変貌してしまったら。    無言は、とても怖いものだと、筆者は思います。  これまで、様々な現場で、仕事で、そう言った「無言」を見てきました。決して、その人に直接は言わない。なぜなら、直接言っても時間の無駄だと…
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2018/07/17

”弱さ”とは何か。改めて考えてみたい。

現代社会は、たくさんの便利なものが溢れています。   日常生活の”いいね”を共有できます。 民泊を手軽に利用することもできます。 家で一言、「アレクサ、音楽かけて」と言えば、好きな音楽をかけてくれるようにもなっています。   でも、それだけ便利で人と簡単に繋がれる社会になっているのに、なぜか”生きづらさ”を感じてしまいます。    便利になり過ぎたからでしょうか。    既読無視を恐れないといけなくなったからでしょうか。      もちろんそうした、テクノロジーの発展によって生じた弊害で、”生きづらさ”を感じていることもあると思います。    でも、”生きづらさ”は、そうしたモノやテクノロジー以外のところに根本の原因があると思っています。      それは、”弱さを受け入れられない弱さ”にあるのではないでしょうか。    ***    そもそも弱さとは何か。少しだけ考えてみましょう。      goo辞書にはこのように記述されていました。   ”力や技が劣っていること”    この捉え方であれば、弱さを生み出しているのは、その人自身であると解釈できます。    でも、弱さはその人自身が生み出したものではなく、社会が生み出したものだと思っています。    例えば、引きこもり。    学校では、強制的にクラスを分けられ、しかもその中で円滑な人間関係を作ることが要求されます。    人間関係を作ることが得意な人もいるでしょうし、得意と言えなくてもある程度人間関係を作れる人が大半です。    でも、そういった人たちと対照的に、人間関係を作ることが苦手な人もいます。その結果、学校に行くのが億劫になり、引きこもりという社会的弱者とされてしまう。    果たして、この引きこもりは弱いのでしょうか。    僕は、人間関係を作るのが苦手だという理由だけで、社会的弱者にしてしまう社会の方が弱いと感じてしまいます。    ***  弱さは、絶対的なものではありません。    他の人と比べた時に、苦手であるという個性にしか過ぎません。    その個性が”弱さ”というフレーミングをされて、弱さが生まれます。    時間をきちんと守れないこと、円滑なコミュニケーションを取れないこと、集中すると周りが見えなくなること、使ったものを元の場所に戻せないこと、お酒をやめられないこと、飽き性なこと。    こういったその人自身の持つ特性を、”弱さ”と一括りにしてしまう社会が弱いと感じてしまいます。  にも関わらず、社会が作り出した弱さを、個人に押し付けています。  この構造が、生きづらさを生んで…
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2018/07/10

弱い人を受け入れられる社会にするには。

いまの世の中、いろんな生き方ができます。  ブロガー、ユーチューバー、旅人、フリーランス、経営者・・・などなど。    もちろん、カンタンになれるわけではありませんが、それでも生き方の選択肢は人類史上、もっとも多いでしょう。      いろんな生き方ができるようになったのに、ほかの人と同じように生きることがもとめられます。    強制的にクラス分けされた小学校、中学校、高等学校と通い続けることが求められ、  大学に進学して、4年生になったら喪服のような、まっくろのスーツを身にまといながら、  何度もなんども「いらない」と言われて続けて、就職活動をして、  就職したら1日の大半を労働に当てながら、45年間働き続けることがもとめられます。      ほかのひとと同じような進み方をすれば生きていくことはできます。  これだけ手厚いレールを用意されているのは、めぐまれている言えるかもしれません。    それでも、それだけ手厚いレールを敷かれているのに、ほかの人と同じようにすすみ続けれない人もいます。  学校に行くことがいやだったり、会社に入って働き続けることが嫌だったり。    理由は様々ですが、進み続けることに疲れてしまう人がいるのは事実です。    そうして社会全体が生きづらさを感じるのは、  いろんな生き方ができるのに、ほかの人と同じように生きることを求められること、にあると思います。    ***    生きづらさを覚える社会を緩和するには、”よわい人”を受け入れられる社会になることではないでしょうか。    ここでいう”よわい人”とは、社会が作り出した弱い人です。  つまり、ほかの人と同じことができない人です。    ほかの人とおなじことをできない人をくくり出し、引きこもりやニートというような”よわい人”を生み出します。    そういった”よわい人”を受け入れられない社会というのは、”よわい人”が生きづらさを覚えます。    ただ、ここで述べたいことは、  そういう社会によって、”よわい人”だけでなく、社会を形成する人全員が生きづらさを覚えてしまうということです。    なぜなら、”よわい人”をくくり出してしまう社会というのは、違いを受け入れられない社会であり、社会を形成するひとりひとりが違いを受け入れられない社会であるからです。    ***      ”よわい人”が生まれてしまうのは、ただの現象にしか過ぎません。本質的に問題であるのは、  ”よわい人”を生み出してしまう社会の構造にこそ原因があります。    つまり、違いをみとめられない社会です…
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2018/07/15

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