もう、寒くない。
寒さが怖くなくなった。だが、それは私自身がたくましくなったからではない。
2003年発売のユニクロのヒートテックを着るまでは、冬の寒い朝、パジャマから冷たい綿の下着に着替える時が嫌だった。本当はストーブで温めてから着替えたいところだが、1分1秒でも時間が惜しい朝にそんな余裕はなかった。
その冷たかった綿の下着も着てしまえば、すぐに気にならなくなるのだが、今度は暖房の強い電車や室内では汗をかく。とても不快。しかし、一歩外に出るとやはり寒くて、今度はヒヤッとする。その繰り返し。とても不快だった。
だが、ヒートテックを着るようになってからは、そのどちらの不快もなくなった。室内で汗をかいて寒い戸外に出てもヒヤッとすることはなく、ポカポカという暖かさではないが、寒さを感じることはほとんどない。
暑い季節にはエアリズムが発売され、やはり温度差が怖くなくなった。オフィスに通う生活が格段に快適になった。
フリースもダウンの登場もありがたい。
最近は、パジャマもフリース素材にしたので、さっきの話とは反対に冷たいネルのパジャマにおそるおそる袖を通すことはもうない。いつも気持ちはらくらく、快適だ。
そうだ。もう、冷たいとか寒いとか我慢しなくてもよくなったのだ。
感覚の代替論
フリースのパジャマに着替えながら、ふと思った。
いつから、「うー、さむっ!」と寒さや冷たさを我慢しなくてよくなったのだろう。
毎日が快適だ。寒ければ、ストーブやエアコンをつければすぐにあたたまるし、蛇口をひねればお湯がすぐに出るし、風呂から上がっても子どもの頃のように脱衣場がヒヤッとするほど寒いということはない。女性なら知っていることだが、タイツも機能性が高くなり、昔より薄いのに寒さを感じない。
我慢しなくてよくなった。
しかし、本当にそれでいいのか。というか、人間として大丈夫なのかと思う。
話は少しずれるが、紙おむつが登場した頃、「気持ち悪い」と感じないで育つことは、赤ちゃんにとって悪い影響はないかという論争があったように覚えている。
実際には、当時の紙おむつはまだ不快感はあり、ちゃんと赤ちゃんは泣いていたようだが、最近は本当に快適らしく、おむつが汚れていることに気がつかない赤ちゃんもいるようで、布おむつも人気らしい。もちろん、濡れたままの紙おむつを長くつけているとお尻がかぶれるとか、おむつ外れが遅れるというの理由もあるのだが、そんなことよりも、気になるのは赤ちゃんの感覚だ。鈍化しないのだろうか。
日常のちょっとした不快や不満、辛さがなくなると、その分の感覚はどこに行ってしまうのだろう。その使わなくてよくなった感覚は、代わりに何をキャッチするのだろう。
別の不快や不満を探してしまってはいないだろうか。
あの頃は、気にもかけていなかった小さな小さな不快に、気づいてしまってはいないだろうか。
もっとシンプルに言えば、我慢することができなくなってはいないだろうか。
不都合な感覚は要らない?
毎朝、吹きっさらしの駅のホームで寒さに耐えて、乗り換える電車を待っていたことを思い出した。今ならきっと同じ状況でも、あんなにも寒い思いはしなくてすむはずだ。
そして、今の私なら、毎朝あの寒さには耐えられない。今や、少しでも寒さを感じることが恐怖にすらなっている。
ふと我に返って、そう考えていると気づいた時、「わたし、大丈夫か」と恐怖を感じた。
でも、もう冬の綿の下着もネルのパジャマには戻れない。
我慢や忍耐が美徳とされた時代は終わっている。論理的かつ効率的に物事は進めていかなければならない、とされている。
それでも、自分に不都合なことを感じる感覚を失うことは怖いと思う。
何にも実証はされてはいないけれど。
それどころか、普段感じなくてよくなったことさえ、忘れているけれど。