日本には、250年もの間7代、8代、9代にわたって、時の政府はもとより近隣の人にすら気づかれないまま、自分達の大切な思いを隠して代々伝えている人達がいた。 今で言う潜伏キリシタン、その昔は隠れキリシタンと言われていた人達だ。その名前は歴史の授業で聞いたこともあるだろう。私が最初に中学の歴史の時間で聞いた時には、そんな人達がいたんだくらいで特別他に感想をもたなかった。でも、この潜伏キリシタン物語は日本の歴史の中で終わったヒトコマというのではなく、今に続いて躍動しているという。 無意識下に潜んでいる思いを揺さぶるような文章がある。 「彼の伴天連の徒党、皆件(くだん)の政令に反し、神道を嫌疑し、正法を誹謗し、義を残(そこな)ひ善を損じ、刑人有るを見ては、載(すなわ)ち欣(よろこ)び載(すなわ)ち奔(はし)り、自ら拝し自ら礼し、是を以て宗の本懐と爲す。邪法に非ずして何ぞや。実に神敵佛敵なり。急ぎ禁ぜずんば、後世必ず国家の患(うれい)あらん。殊に号令を司って之を制せずんば、却て天譴(てんけん)を蒙らん。・・・・ 早く彼の邪法を斥け、弥(いよいよ)吾正法を昌んにせん。世既に澆季(ぎょうき・末の世)に及ぶと雖(いえど)も、益(ますます)神道佛法(仏法)紹隆(しょうりゅう・発展)の善政也。一天四海宜しく承知すべし。敢へて違失する莫(なか)れ。」 これは家康によって命じられた南禅寺金地院の僧、崇伝によって起草され、将軍秀忠の名によって慶長18年2月19日(1613年1月28日)に布告された伴天連追放之文の抜粋だ。キリスト教は邪法で、神道の敵、仏敵であり、急いで禁止しなければ後世に必ず患いがあり、信徒を根絶しなくては天罰が下る言われ、キリシタンはキリシタンで在るがゆえに処罰の対象となった。この思想は以降江戸時代を通し、全ての日本人に寺請制度と踏み絵を通じて摺りこまされただろう。実際、江戸幕府を倒した明治政府の元勲達もキリシタン禁制をそのまま続けた。そして迫害に及んでいる。禁制を続けるのに、どれだけ明確にできる理由があったのだろう。危険で、急ぎ禁ぜずんば、後世必ず国家の患あらんという考えが無意識にでもあったのではないだろうか。 殉教、あまり馴染みのない言葉だけれども、その信仰を貫いた故にこの世の命を失うことだ。それは人間の精神の崇高さの勝利ではないだろうか。秀吉のバテレン追放令に始まる禁教政策によ…
この記事は、岩手県藤沢町大籠という地方に伝わる、千松兄弟という英雄の物語について調べたものです。信仰と殉教の歴史を大切に伝えている大籠の人達に読んでもらいたいと思っています。また、情報があればコメントに寄せて下さい。 製鉄と信仰を伝えた千松兄弟 大籠は岩手県と宮城県との県境の山間にあり、江戸時代には仙台藩の領土であった土地です。 仙台、三陸道から北へ大籠へ通じている国道346は、そこからまた気仙沼、陸前高田と通じています。2018年7月に訪れた時には、東日本大震災からの復興工事のためだろうと考えられる大型のトラックが頻繁に走っていました。大籠へは、石巻から三陸道を使って車で約一時間で行くことが出来ます。 大籠キリシタン殉教公園にあるキリシタン資料館。貴重な資料が豊富にありました。是非、見学することをお勧めします。 この大籠に、名前も知られない多くのキリシタン達の殉教の歴史があるのを知った時は意外に思いました。東北の山里に、どうやってキリストの教えが伝わってきたのだろうと。貿易を通じて海外との交流があった長崎や平戸のような場所ではないし、「彼ら日本人は予の魂の歓びなり」と語った聖フランシスコ・ザビエルが布教のために目指した京都のように、情報発信地とは考えられなかったでしょう。むしろ、地元大籠で出版している資料(1)には 「北上山脈南部にある大籠は殆ど農地に恵まれなかった時代の貧困は、山村民として一度寒気来襲するや、その惨状、目に見張るものがあった。」 とあります。また 「当時は凶作に次ぐ凶作の農民生活がいかに困難の時代」 とも言っています。ちなみに、この資料は小野寺氏が大正末期から30年の長きにわたって行われた研究をまとめられたもので、初版は昭和44年に発刊されたようです。今は第三版を資料館で手に入れることが出来ます。ですがこの町では特殊な産業、製鉄をおこしていました。そして、大籠の製鉄は仙台藩をして、東北において抜きん出た鉄砲の保有数を誇り、伊達政宗がその強力な鉄砲隊を編成するのを可能にしていました。前記の地元出版の資料には 「伊達はこれで無数の鉄砲その他の兵器を造り、他藩を断然抜き、幕府をして戦慄せしめていたろう。大阪冬の陣の時幕府より伊達政宗に対し「鉄砲足軽六千騎を即時編成すべし」との名を受けるや、これを気軽に引き受け、直ちに仙台より江戸に向かわしめた。老中本多佐渡守「如何にや」と…
東北における隠れキリシタンの里が岩手県大籠にあります。 ここを訪れるあたって、とても便利な地図「キリシタン殉教とたたら製鉄の里 大籠散策マップ」を地元の大籠地区自治会協議会において作製しています。 ただ、現地の大籠キリシタン資料館でしか手に入らない。 実際に現地を訪れて、この地図を事前に手に入れば、もっとよく準備して回れたのにとも思った。 そこで、この地元発行の地図を使って大籠を紹介します。地図での案内に、行ってわかった紹介を加えてみました。大籠を訪れる計画に役に立ててもらえたらと思います。 キリシタン殉教とたたら製鉄の里大籠散策マップ (クリックで拡大した地図がみられます) キリシタン殉教とたたら製鉄の里大籠散策マップ裏 (クリックで拡大した地図がみられます) 車で訪れようと考えている人へアドバイス346号線から千松自治会館、上の袖首塚、地蔵の辻を一周回るのは、半時計回りで回ることをお勧めします。近くの採石場に出入りするトラックが、この細い道を半時計回りで走っているからです。決して見通しが良いわけではなく、道幅も狭い所があるので、大きなトラックとの対面でのすれ違いは避けたほうがいいと思います。 以下見出しにある番号は地図中にある番号に相当するので、該当の場所を知ることが出来ます。 1 大籠キリシタン殉教公園キリシタン信仰を守り抜いた祖先たちの歴史と文化を継承・創造していくために、平成6年に開設した。「歴史の庭」「歴史の道」「歴史の丘」という三部構成からなる歴史公園。東北地方と大籠におけるキリスト教の布教と迫害に至る歴史などを展示・解説する「大籠キリシタン資料館」と、岩手県出身の彫刻家・船越保武(ふなこしやすたけ)氏の作品「十字架のイエス・キリスト」、「聖クララ」、「聖マリア・マグダレナ」のブロンズ像三体が展示された「大籠殉教記念クルス館」がある。 資料館から大籠殉教記念クスル館へ繋がる309段の階段があります。この段は大籠の殉教者の数を表しています。かなりの急な階段で、登る(そして降りてくる事になる)にはそれなりの準備が必要です。 2 地蔵の辻無情の辻(むじょうのつじ)ともいう。寛永16年(1639年)、寛永17年(1640年)に打ち首、十字架(ハリツケ)等により、178名が殉教した。 写真中にある案内文: 一名無情の辻という…
その前にスロバキアってどこ?ヨーロッパ地域は我々日本人にとってはなじみ深い目的地ではありますがスロバキアは穴場中の穴場です。チェコの東側に隣接するチェコはかつてチェコスロバキアの構成国にして南側に隣接するハンガリーやオーストリアとはオーストリア=ハンガリー二重帝国の構成地域という関係を持っていました。 そんなスロバキアですが日本からのアクセスは意外に面倒なもので、モスクワで乗り継いでブラチスラバに降りない限りブダペストかウィーンなどから陸路で目指した方が速いです。参考までにブダペストから首都ブラチスラバまでの所要時間は電車で2時間ほど、ウィーンからは1時間前後です。 ニトラ スロバキア南西部にあるニトラ(Nitra、ハンガリー語表記でNyitra)はかつてハンガリー人の多く住まう町でした。その証に第1次世界大戦後の戦後処理の一環だったトリアノン条約で解体されるまでハンガリー領だったニトラには今もハンガリー系の建築物を見ることができます。 写真の右側にうつっている教会にも城にも見えるものはニトラ城で、ハンガリー時代に築城されました。 そんなハンガリーの息遣いがどこか残っているニトラには首都ブラチスラバからは概ね2時間前後でアクセスできます。このニトラこそ、今回紹介する聖書の一節が垣間見える場所になります。 イエスが十字架にかけられたゴルゴタの丘聖書の一節とは新約聖書でイエスキリストがゴルゴタの丘で十字架にかけられる場面を指しています。 まずはイエス自身が十字架を担いで丘の頂上まで登り、イエスキリストはそこで他の受刑者2人と共に十字架にかけられます。そこにさらに茨でできた冠を皮肉交じりでつけられ、やがて絶命してしまいます。 絶命したイエスはやがて弟子らに埋葬されますが3日後には棺の遺体がなくなっており、生前の予言の通り復活して天に昇った、というのがおおまかなアウトラインになります。 ヨーロッパではゴルゴタの丘のことを「カルヴァ―リア(英語ではカルヴァリー)」と呼ぶところが多く、また、カルヴァ―リアと名付けられた丘がヨーロッパ各地にあります。 このような丘には頂上に十字架がささっていることが多く、聖地とほぼ同格にみられていることが多いです。このような丘は実はニトラ市内にもあり、ニトラを象徴する場所のひとつになっています。 Kalvária v Nitre …