東北における隠れキリシタンの里が岩手県大籠にあります。
ここを訪れるあたって、とても便利な地図「キリシタン殉教とたたら製鉄の里 大籠散策マップ」を地元の大籠地区自治会協議会において作製しています。
ただ、現地の大籠キリシタン資料館でしか手に入らない。
実際に現地を訪れて、この地図を事前に手に入れば、もっとよく準備して回れたのにとも思った。
そこで、この地元発行の地図を使って大籠を紹介します。地図での案内に、行ってわかった紹介を加えてみました。大籠を訪れる計画に役に立ててもらえたらと思います。
キリシタン殉教とたたら製鉄の里大籠散策マップ (クリックで拡大した地図がみられます)
キリシタン殉教とたたら製鉄の里大籠散策マップ裏 (クリックで拡大した地図がみられます)
- 車で訪れようと考えている人へアドバイス
346号線から千松自治会館、上の袖首塚、地蔵の辻を一周回るのは、半時計回りで回ることをお勧めします。近くの採石場に出入りするトラックが、この細い道を半時計回りで走っているからです。決して見通しが良いわけではなく、道幅も狭い所があるので、大きなトラックとの対面でのすれ違いは避けたほうがいいと思います。
以下見出しにある番号は地図中にある番号に相当するので、該当の場所を知ることが出来ます。
1 大籠キリシタン殉教公園
キリシタン信仰を守り抜いた祖先たちの歴史と文化を継承・創造していくために、平成6年に開設した。「歴史の庭」「歴史の道」「歴史の丘」という三部構成からなる歴史公園。
東北地方と大籠におけるキリスト教の布教と迫害に至る歴史などを展示・解説する「大籠キリシタン資料館」と、岩手県出身の彫刻家・船越保武(ふなこしやすたけ)氏の作品「十字架のイエス・キリスト」、「聖クララ」、「聖マリア・マグダレナ」のブロンズ像三体が展示された「大籠殉教記念クルス館」がある。
資料館から大籠殉教記念クスル館へ繋がる309段の階段があります。この段は大籠の殉教者の数を表しています。かなりの急な階段で、登る(そして降りてくる事になる)にはそれなりの準備が必要です。
2 地蔵の辻
無情の辻(むじょうのつじ)ともいう。寛永16年(1639年)、寛永17年(1640年)に打ち首、十字架(ハリツケ)等により、178名が殉教した。
写真中にある案内文: 一名無情の辻という 寛永十六、十七年百七十八名をの後の処刑を含み二百余名が打首、十字架等により集団大処刑がおこなわれ、その鮮血が刑場下の二股川を血に染めた無残なこと筆紙に尽くし難きものがあった。その跡、菩提のため地蔵が建てられ又、南無阿弥陀佛。寛政四年に刻んだ五尺の碑、庚申塚地蔵尊は宝暦四年、その他大小十基の供養碑がたっている。この首のない地蔵尊の岩には、次の如く刻まれている。大七妻大柄沢惣兵衛妻藤五郎右エ門清兵衛妻國助妻夫や息子が殉教したので、その母や妻が地蔵尊を建て其の冥福を祈る心で其の心情に一掬の涙なきを得ない
3 首実験石
信徒を打ち首にする時、検視(けんし)の役人が、この石に腰掛けて処刑の有様を見届けたというので、この名前がある。
写真中にある案内文: この石は所成敗を受ける信徒の模様を伊達藩の検視役が腰を下し首実検をしたのである。
4 二代目千葉土佐(にだいめちばとさ)の墓
二代目土佐は初代土佐の後をうけ、たたた製鉄に専念した。
大籠のすぐ近くには遠野城があり、ここの城主は千葉一族である馬籠氏でした。烔屋八人衆のまとめ役であったと考えられるのが、同じ千葉氏族である千葉土佐です。後藤寿庵から、けらおし法による製鉄技術を学び、大籠のたたら業を支えたと考えられます。
5 上野刑場 (オシャナギ様)
信徒の殉教地で寛永17年(1640年)信徒94名が所成敗(ところせいばい)となった場所。
オシャナギ様。よく見ると赤子を抱いている様子であり、潜伏キリシタンが持っていた幼子イエスを抱いた聖母マリア像にも見える。
6 元禄の碑
殉教した信徒の遺体の埋葬は、約60年間禁止され、元禄16年(1703年)遺骨を集めて埋葬し、供養碑が建てられた。
7 大籠カトリック教会
殉教した300有余名を讃え、スイスの信者からの鐘の寄贈などにより、昭和27年(1952年)12月11日に建立され、盛大に聖堂落成式とミサが挙行された。
1952(昭和27)年に大籠の殉教者を顕彰するために、ベトレヘム外国宣教会のフロイエル神父の設計で建立され、ローマ教皇使節バチカン公使フルステンベルク大司教によって献堂祝別式が行われました。
8 祭畑(まつりばたけ)刑場
刑の執行中、逃げた信徒を捕らえ、川向の約40m離れた草地の松の枝に鉄砲を乗せ狙い撃った。
9 上ノ袖首塚(うえのそでくびづか)
地蔵の辻で殉教した信徒の遺族の何人かが、遺体(首)を袖に隠し持参し、ここに埋めたといわれている。
写真中にある案内文: 地蔵の辻ではおおくのキリシタンが処刑(殉教)されました。残された家族は必死に身内の行方を探しました。
処刑の夜、役人が寝静まったのを見計らい、地蔵の辻で処刑された身内をさがし、そして身内の首を着物の袖に隠し持ち逃げた。
しかし血が滴るのを恐れ家まで持ち帰ることは出来なかった。そしてここの山中に埋めたと言い伝わる場所です。
10 台転場(だいてんば)
柵をめぐらし、木戸を作り、通行人をキリシタンであるかどうか絵踏によって検問したところ。
写真中にある案内文: 吉利支丹弾圧の祭、信徒の可否を決するため烔屋に働く品源は勿論の事、此処を通行する者を検問する場所とした此処は部落の狭窄部であり此処の外、通る道も無い要害の地であり此処に柵を造り木戸により一人一人を通し踏絵に依って県もし吉利支丹信徒の可否を決定した処で、この踏絵を踏まない者は地蔵の辻で処刑されたのであった。当時毎晩亡霊が現れ地方民を悩ましたので後に南無阿弥陀仏の供養碑がたてられたので、その後地方民の苦しみはなかったとか。
11 千松大八郎(せんまつだいはちろう)の墓
昭和3年7月故東北大学村岡典嗣教授の調査により、大八郎の墓と認められ、碑文が傍らに建立された。
ここ一帯は、キリシタン墓地があった場所と考えられます。
12 山神(十二神)
千松兄弟が郷里より持参したデウス仏(天主)の像を祀った。切支丹の禁令がでるや、12の神と称し祀った。後に山ノ神と合祀して山神と称する。
鬱蒼としげる森の中にあった山の神(十二神)の祠。最初は千松兄弟が持参したデウス仏の像が祀られた祈りの場であったという。キリシタンの禁令により、以降十二の神と称して祀ったようです。この12という数字はキリストの12使徒から来たのでしょうか。その後、十二神でも危険ということで、山の神と合祀して山神となりました。デウス仏は、禁教により土中に埋められました。そして今なお神体がない神社であるようです。
13 教会跡
信者が朝夕集まり大八郎がキリスト教の教義を説き、祈りをささげた教会の跡。
14 大善神
通称、流行神(はやりかみ)と称し、大善神(キリスト)を祀った。千松兄弟が烔屋(どうや)職人に説教した所。
15 保登子(ほどこ)首塚
殉教者の首を埋めたとされる。荒屋敷(あらやしき)(注、地元の名家)の先祖には3名の殉教者がいて、供養碑が北向きに3基建っている。
16 トキゾー沢刑場
トは「徒」、キは「刑」、ゾーは「場」の意で徒刑場のこと。寛永17年に、10数名が殉教した。
17 ハシバ首塚
ハシバは架場(はせば)の意かと思われる。処刑場の首を架掛(はせが)けにして晒し首にした場所。その傍らに穴を掘り、斬首の理由書とともにうめた。
県道藤沢大籠道の大籠への入り口にあたる場所にあり、ここで見せしめが行われたことに、一関藤沢方面と大籠との繋がりの強さも分かる。
18 大柄沢(おおがらさわ)洞窟
キリシタン信者の隠れ礼拝所。昭和48年に発見された。個人所有地のため見学は、大籠キリシタン資料館へ。
19 沢ノ入烔屋場(さのいりどうやば)跡
20数か所確認されている大籠の烔屋場跡の中で、訪れやすい旧跡である。
「キリシタン殉教とたたら製鉄の里 大籠散策マップ」には米川の後藤寿庵の碑、そして登米市東和町における殉教地も載っています。
31 海無沢(かいなしざわ)三経(さんきょう)塚
狼河原(おいのがわら)村(現在の米川)綱木沢の鉱山には、近隣からキリシタン等が来て働いていたが、享保年間のキリシタン弾圧で磔にされた。遺体は40体ずつ、お経と共に海無沢(かいなしざわ)、朴の沢、老い沢の3カ所に埋められたが、原型を留めているのはこの塚だけである。
32 切捨場霊場(きりすてばれいじょう)
海無沢の三経塚から近い山の中腹で、隠れキリシタン120名が磔・打首にされた。この場所の下にあった桐木馬屋敷の人により密かに供養されていたが、昭和57年他所へ移住する際に初めて事実が明かされ、世に知られるようになった。
この説明では、昭和57年まで隠れキリシタンとして生活していた人がここにいたということでしょうか。深いですね。
そして前後になりますが
30 後藤寿庵の碑
後藤寿庵は伊達政宗の家臣で、熱心なカトリック信者であった。元和9年のキリシタン弾圧で南部に逃れ消息不明だったが、昭和26年宮城県史編集委員が、当時建てられた無名の碑を発見。現在の碑は、米川村が昭和27年建立したものである。
東北の隠れキリシタンの里と後藤寿庵について
キリシタンの里、大籠
同じ岩手県一関にある福原には、キリシタン類族として江戸時代を通じて特別な監視を受けながら信仰を代々つたえ、潜伏キリシタンたちが明治まで多くのメダイ(キリシタンの聖具)を秘蔵していたことも知られています(参照1)。
この地を治めていたのは伊達政宗の重臣であり、またキリシタンであった後藤寿庵で、福原を豊饒の地にした寿庵堰でその名前が残っていました。
江戸時代の禁教政策が厳しくなり、伊達政宗が藩内禁教に舵を切った時期である元和7年(1921年)、全国のキリシタン代表が教皇パウロ5世に送った手紙の中で、奥州のキリシタン代表17人の1人として最初に後藤寿庵が署名していることから、この地におけるキリシタンの代表者であったことも分かっています。
後藤寿庵は大籠の近くにある藤沢城の元城主の息子でもあり、大籠の製鉄(たたら)業にも大きな貢献をした人です。
禁教政策に踏み切った伊達政宗からも、その人を惜しまれ、以下の3点において信仰を内密にしておく誓詞をだすのであれば、信仰を続けてもいいとさえ言われますが、寿庵は断ります。
- 一刻たりとも神父を邸に留めないこと
- 誰にもキリシタンの教えを説かず、またキリシタン達に信仰を固守することを勧めないこと
- 自分がキリシタン信仰を守ることを許されているのを内密にしておくこと
藩の製鉄に極めて重要な大籠のたたら烔屋の主だった家、およびこの地での重要なキリシタンは、この条件をのむことで、潜伏キリシタンとしてその後続いていたと考えられます。
この地で茅葺屋根のある屋敷をもつ立派な家において、隠れ礼拝堂の構造が見つかっていることからも推測できます。
岩手県一関市藤沢町徳田で見つかった隠れ礼拝堂・大籠キリシタン資料館にて
ですが、後藤寿庵は信仰表明を行い、1624年ついに藩の罪人となり追放され、その存在は抹消されてしまします。その後表で語られることは憚られることとなり、江戸時代を通じてその存在は千松兄弟として知られるようになる。この間に関しては、
を参考にして下さい。
後藤寿庵の消息はその後不明です。
なお、1635年に南部藩で七百十六人のキリシタン大検挙が行われた時、25人は寿庵の弟子、10人は寿庵の家臣、三宅五郎兵衛の弟子、47人は五郎兵衛の弟子新石右衛門の弟子と記録されています(参照1)。
キリシタンの里、米川
大籠に近い登米市東和町米川でも多くのキリシタン達が殉教していることが分かっています(Laudateのカトリック米川教会の紹介)。
後藤寿庵の碑によると、
寛永のはじめ狼河原(おいのがわら)村(現在の米川)仲上沢及川家の世話で、後ろの山へ庵を立てて住んでいたが、養子を迎えることになり、西上沢に移り住んだと伝わっている。その家が、現在の畑中後藤家である。この地での生活も長く続かず、密告によって、ある朝役人に寝こみを襲われ、前の畑で所成敗された。遺体は塩漬けにされて、逆さまに埋め、鍋を被せられた。墓は立てることができず、目印とした無名の丸石が寿庵の墓として後藤家の旧墓地にあり、今も大事に供養されている。後藤家は、寛永一八年(1641)の人数改帳、享保九年(1724)の宗門改帳、元文四年(1739)の人数改帳にも切支丹類族が続いている旧家である。旧墓地前の大きな寿庵の墓は昭和二十七年に米川村が建立した供養碑である。としている。後藤寿庵の碑昭和四十六年十月八日 東和町(現登米市) 文化財指定平成二十四年三月 米川地域振興会
ここは
- 一刻たりとも神父を邸に留めないこと
- 誰にもキリシタンの教えを説かず、またキリシタン達に信仰を固守することを勧めないこと
- 自分がキリシタン信仰を守ることを許されているのを内密にしておくこと
という伊達政宗からの申し出を断り公に信仰表明をすることを辞さず追放された後藤寿庵が、その後潜伏キリシタンとして生活したは謎です。
ただ、後藤寿庵がこの地においてもキリシタンの教えを説き、多くの殉教があり潜伏キリシタンがいたことが分かりました。
そして、ここで信仰のために殉教した人がいたという事の重さには変わりません。
終わりに
大籠を流れる千松川には岩魚・山女の魚影が濃く、大自然の中にある静かな里でした。
この地であった名前も知られずにいるキリシタン達の信仰の証による殉教に、静かに祈りをあわせたいと思いました。
参照
1)日本キリシタン殉教史、片岡弥吉全集 発行2010年