製鉄と信仰を伝えた千松兄弟
大籠は岩手県と宮城県との県境の山間にあり、江戸時代には仙台藩の領土であった土地です。
仙台、三陸道から北へ大籠へ通じている国道346は、そこからまた気仙沼、陸前高田と通じています。2018年7月に訪れた時には、東日本大震災からの復興工事のためだろうと考えられる大型のトラックが頻繁に走っていました。大籠へは、石巻から三陸道を使って車で約一時間で行くことが出来ます。
大籠キリシタン殉教公園にあるキリシタン資料館。貴重な資料が豊富にありました。是非、見学することをお勧めします。
とも言っています。
ちなみに、この資料は小野寺氏が大正末期から30年の長きにわたって行われた研究をまとめられたもので、初版は昭和44年に発刊されたようです。今は第三版を資料館で手に入れることが出来ます。
ですがこの町では特殊な産業、製鉄をおこしていました。そして、大籠の製鉄は仙台藩をして、東北において抜きん出た鉄砲の保有数を誇り、伊達政宗がその強力な鉄砲隊を編成するのを可能にしていました。前記の地元出版の資料には
「伊達はこれで無数の鉄砲その他の兵器を造り、他藩を断然抜き、幕府をして戦慄せしめていたろう。大阪冬の陣の時幕府より伊達政宗に対し「鉄砲足軽六千騎を即時編成すべし」との名を受けるや、これを気軽に引き受け、直ちに仙台より江戸に向かわしめた。老中本多佐渡守「如何にや」と使いを栗橋まで派し見るに、「堂々六千騎をが行進しつつある」との報告に接し、本多佐渡守驚いて直ちに江戸城中で重臣会議を開き、徳川として伊達恐るべしと瞠若せしめたとか、これは大籠の鉄あってこそである。」
とあります。この文章からは、今現在においても地元の方々が、盛況だった製鉄産業への誇りと高い心意気を持っているのが伺えます。そしてキリシタンの教えが広まった当時においても、製鉄所「たたら」で働いていた大籠の人達は、正宗公を支えているという強い誇りを持っていたことでしょう。
この製鉄の技術を伝えた大籠の英雄が、千松大八郎、小八郎の兄弟とされています。
製鉄によって人々の暮らしが改善し、住民に仕事の誇りを持たらした兄弟は、正に英雄だったのでしょう。千松大八郎の墓が、昭和三年に東北大学の村岡典嗣教授によって千松川の左岸の丘にあると認められて、そこには墓碑が立っています(小野寺氏による資料は村岡教授との共同研究成果でもあるようです)。
そして、この千松兄弟がキリシタンであったことから、その教えも大籠を中心に広がっていったと伝えられています。千松兄弟はお互いに助けあう共同体として暮らしていくよう教えました。人々の暮らしの事も考える、とても優しい指導者だったのですね。
大善神(キリスト)を祀り、千松兄弟が烔屋(どうや:伊達藩で製鉄する場所の事)職人に説教したといわれる場所が現在の大籠に残されています。キリストに対して大善神という名前をつけたのは面白い点です。というのも、当時編集された日本語でのキリシタンの教義、どちりいな(ポルトガル語Docrina)にはその序文で、真の掟は、信仰の善、希望の善、愛の善に極まる也と述べているので(資料5)、大善神はどちりいなで述べられたこれらの「善」から由来したのではないかと思います。
鬱蒼としげる森の中にあった山の神(十二神)の祠。最初は千松兄弟が持参したデウス仏の像が祀られた祈りの場であったという。キリシタンの禁令により、以降十二の神と称して祀ったようです。この12という数字はキリストの12使徒から来たのでしょうか。その後、十二神でも危険ということで、山の神と合祀して山神となりました。デウス仏は、禁教により土中に埋められました。そして今なお神体がない神社であるようです。地元の人も、ここへはめったに行かないと言っていました。確かにそのようで、7月に行ったのですが、新年の飾りが中に飾ってありました。いつ建てられたのかは不明なのですが、建物自体は良く保存されていました。
千松兄弟は実在したのでしょうか?
では、この千松兄弟とはどういった人達だったのでしょうか?歴史的背景を調べているうちに、辻褄の合わないことが多々あることが分かりました。
伝えられたという技術はそれより後の時代に開発された
資料(1)には
一子相伝技術の長である家系が不明
また千松兄弟に家族があったのか、子孫がいるのかに関しては今のところ不確かです。逆に弟子とされた、烔屋八人衆の家系は、江戸時代を通じて今も続いています。場所によっては一子相伝として通じて伝えられてきたという製鉄製法技術の持ち主の村下(たららの長)の家系が続かずに、弟子の家系が続いたのは謎です。また烔屋棟梁家に関して残されている豊富な歴史資料に比べると、千松兄弟に関する確かな記録が少なすぎます。
招待されたという時期には備中にはキリシタン信仰が伝わっていなかった
実はさらに、千松兄弟が招待されたという時期にも疑問があります。
千松兄弟は、永禄年中(1558〜1570年)に備中有木から招待されたと考えられていいます。これは、烔屋経営を任された八つの棟梁家(屋敷)のうちの一つ首藤家の古文書に記されています。
ですがザビエルが鹿児島湾経由で来日したのが1549年です。それからわずか20年も経っていない間に兄弟はキリシタンになって大籠へ招聘されたことになります。天下統一の過程にあった信長が京都においてキリスト教布教を許したのが1569年ですから、あまりに早すぎます。
ザビエルから日本布教を託されたコスメ・デ・トーレスは山口と豊後で布教活動を行います。ですが1556年に大内義隆が殺され、山口が戦乱により破壊された後には、豊後、平戸と九州を中心に宣教しています。この間、千松兄弟がいたといわれる備中までその教えがどの程度伝わったのかは定かでは有りません。街道沿いの町なら伝え聞くこともあったでしょう。ですが、たたらがあったような山地において熱心な信徒を生み出すほど教えが急速に伝わったとするのは難しい推測に思えます。また、中国地方でのたたらの共同体では、金屋子神(かなやごかみ)への信仰が強く、むしろキリシタンの教えが伝わりやすい土壌では無かったとも考えられます。
1559年にガスパル・ヴィレイラ神父が将軍足利義輝にやっと謁見しています。この時一行は豊後から瀬戸内海を船で堺まで移動しています。その移動で安芸(現在の広島)に滞在中、山口で洗礼を受けて戦乱の後に移ってきたという、老齢に達した1人のキリシタンと会います。そのキリシタンは非常に喜び自分の貧しい小屋で、持てるものでもてなしたとルイス・フロイスの日本史に記されています(資料4)。山口の戦乱によって辛うじて逃げてきた、たった1人のキリシタンと広島で会えたことが、逆にさらに山口から離れた岡山の山中に信仰が伝わることの難しさを感じさせます。
さて、前記の大籠の資料(1)においては
とあります。ですが、備中の領主でキリシタン大名である宇喜多秀家は1572年生まれなので、永禄年中(1558〜1570年)にはまだ生まれてもいません。その家臣で熱心なキリシタンであった明石掃部も生まれは1569年頃と言われています。実際に備中においてキリシタンの教えが伝わってきたのは、早くとも1585年にキリシタン大名の高山右近が播磨明石に入って、その影響が伝わってからでしょう。そして本格的に広がるのは、高山右近や正室の豪姫の影響で宇喜多秀家がキリスト教を家臣に勧めてからです。でもそれは1590年以降のことです。
つまり、千松兄弟が招待されたという永禄年中(1558〜1570年)には、キリスト教は備中には広がっていませんでした。ましてや、山中の「たたら」においてやです。
そもそも、その時代備中に「たたら」はなかった
千松兄弟は、棟梁家である千葉土佐(人物名)が、当時製鉄が盛んであった(と思われていた)岡山、備中中山有木から招聘したとされています。これも、首藤家の古文書によります。
「まがね吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ」
と古今和歌集にあります。吉備の枕詞となっている「まがね吹く」とは「鉄を作る」ということで、平安時代前期には、吉備で製鉄が盛んであることが都で知られていたのでしょう。実際に、多数の奈良時代前期までの製鉄遺跡が備中の総社近くで多く発見されています。その当時は鉄鉱石を元にして製鉄が行われていました。ですが、時代と共にこの鉄鉱石が枯渇してしまいます。そして、鎌倉時代以降には中国山地で豊富にあった砂鉄を原料としてのみ鉄を作るようになり、たたらは石見、出雲の山間部へと移ってしまします(資料3)。
そして11世紀以降は、備前と備中南部から製鉄遺跡が全く姿を消してしまうのです(資料2)。
ですから、「備中中山」から千松兄弟が招かれたとする古文書の記録は、単に有りうるように記録されたものだったと考えられます。その備中中山とは備中南部の総社の近くにあり、千松兄弟が招待されたとされる永禄年中(1558〜1570年)には製鉄は行われなくなって随分と久しかったのです(資料3)。
古文書が書かれた時代の東北では、実際の備中での製鉄事情など知る由もなかったでしょう。なので「まがね吹く 吉備の中山」と古今和歌集で歌われている吉備の中山から製鉄の指導者として招待したと言えば、疑われることなく通じてしまったのでしょう。
千松兄弟実在の史実的な根拠は薄いことが分かりました。千松兄弟とは作られた人物であったと考えられます。
千松兄弟を英雄とする大籠の資料においてすらも、括弧付きで(千松の実在を否定する学者もある)と控えめに述べています。
大籠カトリック教会。昭和27年に建立されたました。今でも特別な日に殉教者を讃えミサ捧げられているそうです。この教会にあるキリシタン小史にも、永禄年中に千松大八郎、小八郎兄弟が鉄の精錬に従事しながらキリスト教の伝導をしたと伝えられるとありました。その言い伝えの意味を伝えていくことは大切でしょう。
千松兄弟とは、後藤寿庵と孫右衛門神父ではないだろうか
では、何故千松兄弟の話が作られたかのでしょうか?千松兄弟に相当する人達が実際にいたという厳かな証明が大籠にはあります。
江戸幕府が基盤を固め、キリスト教を全国において禁教とし、仙台藩においても弾圧が行われます。信者の存在が表から消えたと考えられていた1937年、島原・天草の乱が起こります。恐れていたキリシタン勢力の乱を目の当たりにした幕府を震撼させました。結果としては、圧倒的な幕府軍の武力により、乱に参加したものは女子供関係なく全員殺害、島原城は徹底的に破壊されて鎮圧されてしまいます。
その衝撃も収まらなかったであろう寛永16年(1639年)、大籠村で神父を匿っている住民がいるとの密告があったのです。捕まった神父は江戸に送られ火あぶりの刑に処せられ殉教しています。それに続き、大籠でも信仰を貫いた309人のキリシタンが殉教するのです。
この殉教者達の存在は、大籠の人達に製鉄技術だけでなく、救いの教えを説いた人物がいたことを確かに証明しています。大籠には千松川という川が流れていますが、千松兄弟の苗字とこの川の名前はたまたま一緒だったのでしょうか。実は、千松川のほとりで優しく教えを説いた兄弟のような二人がいたのです。
その二人とは、後藤寿庵と孫右衛門神父です。
後藤寿庵は新しい製鉄法と信仰を大籠に伝え、そして孫右衛門神父は最後まで信仰の灯火を大籠で灯していたのです。
厳しい禁教化において二人とも罪人として処罰されおり、当時二人の実際の名前を語ることは不可能なことでした。代わりに千松大八郎、小八郎という名前を使うことで、大籠の人たちは自分達が信じた信仰の素晴らしさを子孫に伝えたかったと考えられます。
参照
大籠の切支丹と製鉄第三版 藤沢町文化振興協会 この貴重な資料は大籠キリシタン殉教公園にあるキリシタン資料館にて購入できます。
ルイス・フロイス日本史1 織田信長編I 中央文庫 第三章
キリシタン書・拝耶書 日本思想体系 岩波書店 キリシタン書どちりなーきりしたん