前回の続きになります(^^ゞ 韓国の「独立記念館」建設の経緯でした。 日本の政治家の余りに誠意のない返答に怒った韓国の全斗煥大統領が、日本政府に反省させる意図を持ってあくまで個人として関わって建設させたのが、「独立記念館」という事になります。建設には、「意図」があったんですよね。日本政府によるごまかしが行われて風化する前に、忘れさせない場所を作る、それが意図なんです。ブレ易い日本人に、決して忘れさせない事。 その意図を持って作られた「独立記念館」には、今なお韓国全土の子供達がやってきて、全斗煥大統領の意志を引き継ぎ、韓国人としての誇りを取り戻す場となっているような気がします。日本が少しでもブレた場合、それを許すなという教育を脈々と受け続けている韓国人。 でも、そこにはまた更に別の意図も見え隠れしないかと思う事があります。それは、スケープゴートを用意する事で、韓国人の一致団結を図っている という事です。愛国心に訴えかけて、いつも悪いのは全部日本だとする事で、韓国人はいつも誇り高く正しい、そしてまとまりのある民族だという教育にすり替わっている懸念があるという事。しかしそのきっかけを作ってしまったのは、韓国Ⅱで述べた日本の政治家達だったんですね。 どんな現象にも意図があり、それを紐解くと別の現象と意図が見え隠れする。 世の中、物事、人々、全てが物凄く複雑に絡み合って、別の現象を産み出す。だからこそ、現象を見て、観察して、紐解いて、調べて・・結局、自分で考えるしかないのですね。信じられるのは、結局自分だけ。他人に聞いても、そのアドバイスの裏にどんな目的があるか分からないから、大人になると段々頼れるのは自分だけになっていきます。 全ての会話には目的がある、と以前どこかで読んだ覚えがありますが、全ての物事にも、残念ながら裏があります。読み解き、立ち止まる時間はとても大切です。他の人達が物凄い勢いで素通りする中、自分だけ立ち止まって人より時間を多くかけないと気付けない大切な事があります。 現に私もこうして「書く」という機会を与えて頂いて初めて、深く掘り下げる事が出来ました。そうでなかったら、ただ「韓国、疲れたよね~」で終わっていたのかもしれません。何であの時あんな現象が起きたのだろう??と、立ち止まり、解析し、調べてまた考える・・その時間が誰にでも必要です。それがなくては、真実が掴めないからで…
みなさんはポルトガルというと何を思い浮かべますか?日本ではまだまだ認知度の低い国なので、ポルトガルってどこにある国?何があるの?疑問に聞かれてしまうことも多いのではないでしょうか。しかし実はポルトガルは、日本ととっても所縁の深いヨーロッパの国の一つなのです!今回の記事では、そんな日本とポルトガルの歴史的な関係についてご紹介していきたいと思います。 日本とポルトガルの歴史①:始まりは16世紀 16世紀、ヨーロッパは大航海時代と呼ばれる時代でした。それ以前のヨーロッパは、周辺地域への地理認識はあったものの、中国や日本などの東アジア地域は、過去に旅をした人々の記録に基づきイメージを膨らませることしかできませんでした。そのため、中世では多くの人々が、アジア地域には不思議な身体的特徴を持つ「人間」や動物が住んでいると考えているほどでした。また、この時代にはまだアメリカ大陸の存在はヨーロッパ諸国には認識されていませんでした。 それらの、ヨーロッパ人にとって「未開」の地を「発見」しようという試みが興隆したのが、この大航海時代です。とくにポルトガルとスペインは当時、航海技術に長け、積極的にアジアやアメリカへ舩を出しました。アジア・アメリカに到着した後、征服活動を開始し、キリスト教化・植民地化などを行いました。 日本とポルトガルの歴史②:日本との出会い このように海の向こう側に向けて出発したポルトガル船の一隻が、記録上によると1541年に豊後国神宮寺浦(現在の大分県)に漂着しました。これが、ヨーロッパ諸国から日本への初めての直接的な上陸であったと言われています。 その後、再びポルトガル船が1543年の種子島を訪れ、その際に鉄砲を日本に伝えました。さらに、1549年にはキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが日本を訪れ、布教活動に従事したという記録が残っています。 日本とポルトガルの歴史③:鎖国とその後 その後、日本は鎖国時代(1639-1854年)に突入します。この時代、日本をオランダや中国などの一部の国を除き、外交を経つ政策をとっていました。200年以上にわたって続いたこの体制を経て、ペリー率いるアメリカ船が下田に来航し、国交を開始するように持ち掛け、それを皮切りに、日本は他の国々とも国交を回復するようになりました。 それに伴い、ポルトガルとも1860年に日葡和親条約及び日葡修好通商条約が結ばれ…
1日300万人以上が利用している渋谷駅。毎日利用していても、迷ってしまうくらい複雑な構造になってます。それだけでなく、工事をしている期間が10年以上。これを聞くと驚いてしまいますよね。 しかし、その工事をしている理由と完成する日を知っている人が少ないのが現状です。今回は、渋谷駅の工事についてまとめてみました。 【渋谷駅の歴史】 工事の話を始める前に、その話に関わってくるので、渋谷駅の歴史をお話しするところから始めます。 渋谷駅が開業した1885年、その日の利用者は全くいませんでした。しかし、渋谷駅はその後、順調に利用者が増えていきます。それと同時に、路線の開業と廃止を繰り返してきました。 第2次世界大戦が終わる1945年までに、路面電車や現在の山手線、東急東横線、東京メトロ銀座線、京王井の頭線が開通したんです。 それ以降ですが、1951年から1953年までデパートとビルをつなぐロープウェイが走ってました。今では想像できないことなので、驚いてしまいますよね。 引用元:都営交通の隠れた存在―トロリーバス それから1955年には、バスの上にパンタグラフと電線があったトロリーバスが走り始めますが、1968年に廃止されました。それだけでなく、翌年の1969年には路面電車も廃止されたんです。 その後渋谷駅は、1977年に開通した旧東急新玉川線(のちの田園都市線)、1996年に延伸した埼京線、2008年に開通した東京メトロ副都心線のホームができました。 これらがきっかけとなり、渋谷駅は大きく生まれ変わることになったんです。 【地下改札と地上を一直線でつなぐ通路が完成しました】 先程までは渋谷駅の歴史などをまとめましたが、ここからは、2019年に新しくできたものを紹介しますね。 2013年に始まった東急東横線と東京メトロ副都心線の直通運転。 直通運転が始まる前、東横線は地上にホームがあったことから、山手線や銀座線の乗り換えが楽に行うことができました。それだけでなく、始発駅だったので電車に座れる確率がとても高かったんです。 しかし、地下5階に移動したことにより、複雑な駅構内を歩くことが必要になってきました。それだけでなく、地下深くにホームがあるので、そこまで遠くなったことや、渋谷駅始発の電車が大幅に少なくなったことも不便になった原因です。 ところが、それらを少しだけ解消することができました。それは、2028年に…
航空路線の新設は最近高頻度でそれも大々的に耳に入るようになってきました。今年最も話題になったものだと破天荒なベトナムのLCCベトジェットの日本就航があり、ひっそりと新規就航したカザフスタンのSCAT航空があり、そして今回取り扱う日本航空では来年からウラジオストクに新規就航させるなどがありますね。 このような新規就航については大々的に耳にしますがここでもうひとつ気になるものがあります。航空路線は情勢に左右されやすいので変化に常に富む中で比較的長続きしている路線はどこなのでしょう?日本航空では今関係が冷え込んでいるあの国が老舗路線のひとつとして浮上しました。 今年で40周年を迎えた成田ー釜山線2019年7月、それは折しも日韓関係の冷え込みが決定的なものになった時期に日本航空の成田ー釜山線は40周年目を迎えました。 日本からの釜山路線のパイオニアはもともとは成田発ではなく1967年に設定された福岡発でした。今にまで40年続くことになる成田発が就航したのはそれから12年後の1979年のことでした。一時期は大阪や名古屋からも就航していた釜山路線ですが今では成田発のみになっています。 なお、参考までに釜山線より早く就航した路線に東京発のソウル、シンガポールなどがあります。 LCCとの競争が激しい釜山路線今や日本から釜山に乗り入れている航空会社の殆どをLCCが占めており、その中にエアプサン、チェジュ航空、イースタージェットなどが含まれます。他方、フルコストキャリアはというと日本航空と大韓航空のみです。 厳しい競争になっていますが実際には韓国発で購入すると日本航空の片道運賃がLCCも顔負けな安さになっており、加えて無料預け荷物や食事などのサービスもあるだけにこれは手ごわいです。筆者も実際に乗ってみたのですが色々な発見がありました。 短距離国際線は少々忙しい?筆者が実際に利用した便は釜山を午前7時45分に出発するJL960便でした。定刻通りなら2時間5分後の9時50分に成田空港到着です。 チェックインについてはウェブチェックインで予め済ませていたのですが発券し忘れたので2時間前を目途に到着したものの列ひとつ見当たらない有様でした。当時はここに日韓関係の冷え込みを改めて感じた、と思えば後でこれがひっくり返ります。 沖止めされている機材(ボーイング737ー800の小型機)まで案内されると結果としてほ…
今や旅どころか外出することすらハードルの高い日々ですが、じっと耐え忍ぶ以外に術はありません。 そこで世界史と筆者の過去の旅をテーマに、役に立つのか立たないのかよく分からないうんちく話をしたいと思います。 キーワードは「カザフスタン」と「チンギスハーンのガチギレ」です。 チンギスハーン(チンギスカン) この人物名を知らないという人は世界的にほぼ皆無に近いのではないでしょうか。 短絡的にまとめるならば統一モンゴル帝国(元王朝)の建国の父である共に短期間でユーラシア大陸の大部分を支配下に置くという驚異的な功績を持つ人物でもあります。 ただし、帝国領土が最大になるのはチンギスハーンの死後になってからですが。 このような功績から遊牧民の英雄として中央アジアを中心に尊敬を集めた他、モンゴルでは神としてあがめられています。 そんなチンギスハーンですが中央アジア攻略で背筋が冷えるような側面を見せています。 カザフスタンはどこ? 中央アジアで旧ソ連の構成国でもあったカザフスタンは北はロシア、東は中国、西はカスピ海(海とありますが実際は塩水湖です)、南はウズベキスタン、キルギスタン、トルクメニスタンに囲まれた内陸国です。内陸国としては世界最大級の面積を持つ国であると共に宇宙開発の中心地でもあるバイコヌールもカザフスタンにあるので覚えておいて損はないでしょう。 一口にカザフスタンとは言っても実際にどこでチンギスハーンの怒り具合が分かる場所を見れるかというと、南カザフスタン州のオトラル(Otrar)というところになります。最寄りの大都市は州都シムケント、中規模都市はテュルキスタンで、テュルキスタンからであれば車で1時間半前後です。公共交通機関はないに等しいので筆者は宿主の車で連れていってもらいました。 余談ですが南カザフスタン州はウズベキスタン国境に近いだけでなく、住民も多くはウズベク人です。 そのため、カザフスタンの中にあるウズベキスタンということもできる地域になっています。シムケントという地名もウズベキスタンの首都タシケントのように「ケント」というウズベク語が入ってるところからも地図上ではカザフスタンにいながら文化的にウズベキスタンにいるという体験をすることになります。 オトラル事件と原形をとどめない遺跡 近年復元されたばかりの城門をくぐるとそこにはオトラルの遺跡があります。 元々オトラルはオアシスがあったことで栄…
私はソリブジン事件(フルオロウラシル系薬剤と併用すると死亡例が出た)が新聞を賑わせている時期に、フルオロウラシル系の新しい薬剤を開発していたので、薬害に関してはあってはならないと思っています。 しかし、薬害が起こった原因には、厚生労働省が薬剤を評価するために要求している試験の内容が不足していこともあります。そのため、薬害があるごとに厚生労働省の新薬承認基準が厳しくなります。 薬害を起こした化合物は死にいたる副作用や回復不能な副作用をおこしたものですが、決して効力が無かったものではありません。その当時でも特効薬であったものや現在の科学水準で判断すると効果が高い可能性があったものもあります。 薬害の定義と歴史 薬害の定義 薬害とは実際には医学用語として定義されたものではなく、マスコミ用語の一つともいえます。 全く副作用のない薬は(多分)効果もありません。従って、副作用が発生してもその重度が低く、すぐに回復するものであれば問題はないと考えられます。 許容される副作用に関しては使われる分野によっても変わります。 例えば抗腫瘍剤が、回復が認められない副作用や死亡につながる副作用を起こす場合は問題になります。ですが、抗腫瘍剤によって治療しなければ死亡にいたる場合は、重大な副作用があったとしても治療をすることを前提に厚生労働省は認可します。その副作用の発生率に関しては軽度なものであれば100%でも許容されます。 第4世代のがん治療薬として脚光を浴びている、がん細胞が生体免疫細胞を無効化する仕組みを抑える免疫チェックポイント阻害剤も副作用は存在します1)。多数の人に使用した場合にはⅠ型糖尿病のような作用機序に基づく副作用が既に報告されています。間質性肺炎に関しても報告があり、死の転帰をたどった人もいます。 しかし、免疫チェックポイント阻害剤は危険な薬剤であるとマスコミは報道することはありません。また、副作用によって死亡した患者さんが免疫チェックポイント阻害剤の製造会社を訴えることもありません。 ワクチンのように健康人に接種することから死亡や回復することがない(不可逆的とよびます)副作用(ワクチンの場合は副反応とよびます)が起こった場合にはマスコミは大々的に取り上げます。 しかし、ワクチンと不可逆的な副反応が因果関係があることを証明することは科学的には難しいことです。(因果関係がないことを証明することは悪…