今や旅どころか外出することすらハードルの高い日々ですが、じっと耐え忍ぶ以外に術はありません。
そこで世界史と筆者の過去の旅をテーマに、役に立つのか立たないのかよく分からないうんちく話をしたいと思います。
キーワードは「カザフスタン」と「チンギスハーンのガチギレ」です。
チンギスハーン(チンギスカン)
この人物名を知らないという人は世界的にほぼ皆無に近いのではないでしょうか。
短絡的にまとめるならば統一モンゴル帝国(元王朝)の建国の父である共に短期間でユーラシア大陸の大部分を支配下に置くという驚異的な功績を持つ人物でもあります。
ただし、帝国領土が最大になるのはチンギスハーンの死後になってからですが。
このような功績から遊牧民の英雄として中央アジアを中心に尊敬を集めた他、モンゴルでは神としてあがめられています。
そんなチンギスハーンですが中央アジア攻略で背筋が冷えるような側面を見せています。
カザフスタンはどこ?
中央アジアで旧ソ連の構成国でもあったカザフスタンは北はロシア、東は中国、西はカスピ海(海とありますが実際は塩水湖です)、南はウズベキスタン、キルギスタン、トルクメニスタンに囲まれた内陸国です。内陸国としては世界最大級の面積を持つ国であると共に宇宙開発の中心地でもあるバイコヌールもカザフスタンにあるので覚えておいて損はないでしょう。
一口にカザフスタンとは言っても実際にどこでチンギスハーンの怒り具合が分かる場所を見れるかというと、南カザフスタン州のオトラル(Otrar)というところになります。最寄りの大都市は州都シムケント、中規模都市はテュルキスタンで、テュルキスタンからであれば車で1時間半前後です。公共交通機関はないに等しいので筆者は宿主の車で連れていってもらいました。
余談ですが南カザフスタン州はウズベキスタン国境に近いだけでなく、住民も多くはウズベク人です。
そのため、カザフスタンの中にあるウズベキスタンということもできる地域になっています。シムケントという地名もウズベキスタンの首都タシケントのように「ケント」というウズベク語が入ってるところからも地図上ではカザフスタンにいながら文化的にウズベキスタンにいるという体験をすることになります。
オトラル事件と原形をとどめない遺跡
近年復元されたばかりの城門をくぐるとそこにはオトラルの遺跡があります。
元々オトラルはオアシスがあったことで栄えた古代都市で、チンギスハーンによる攻略以前はホラズムシャー朝によってイスラム勢力に組み込まれ、モンゴルと国境を接する都市でもありました。また、チンギスハーンの怒りを買って征西のきっかけを与えた場所でもありました。
事の発端は1218年、モンゴルから送り込まれた使節団が一人を除いて皆殺しにされてしまう上に商品も略奪されたところに始まります。これを後にオトラル事件と呼んでいます。当時オトラルの総督を務めていたイナルチュクの身柄を引き渡すよう要請するチンギスハーンでしたがそれもかなわず、しかも当時のスルタンに送った使者も2人を除いて殺害されるという有様でした。
これに堪忍袋の緒が切れたチンギスハーンは自ら大軍を率いて出陣し、包囲戦を仕掛けます。オトラルでの戦闘はモンゴル軍が大勝し、総督は両目と両耳に溶かした銀を流し込まれるという過酷な方法で処刑されました。しかし、それだけに留まらず見せしめにオトラルは街ごと徹底的に破壊されました。
そしてこの後現在のアフガニスタン・イラン方面へ向けての征服事業の足掛かりを整えたのです。
遺跡内部の居住区跡ですが区画分けを除いて殆ど原形をとどめていません。しかし、実際にはモンゴルの支配下に置かれたオトラルは周辺環境に恵まれていたことと、交通の要衝にもなるという点を見逃していなかったようで、貨幣鋳造所がおかれるほどまでに復興しました。
のちにウズベク、カザフがそれぞれ統治するようになりますが19世紀初頭までにオアシスが渇水すると完全に廃墟になりました。
つまり、オトラルの場合はチンギスハーンの怒りを買い、総督は処刑され、街は徹底的に破壊されたもののオアシスが渇水するまでの間は都市としての機能を持ち続けていたことになります。
ただし住民については生存者は強制連行されたようですが、これは実は不幸中の幸いでした。後のアフガニスタン方面への進軍に際しては徹底した破壊と虐殺がセットで行われ、中には2度と復興しなかった都市もあったためです。
まとめ
予習なしで行くと何があったのかさっぱり分からないオトラル遺跡でしたが、この遺跡こそチンギスハーンの怒りを買ってしまった場所であることをお分かりいただけたかと思います。
それにしても遺跡が原形をとどめていない理由がモンゴル軍による破壊ではなく(後に復興させたため)オアシスの渇水による放棄だった点は意外でした。
最後に余談ですが遺跡からほど近いところにもうひとつ「オトラル」という名前を持った小さな町があります。そこには聖者廟もあることから巡礼者や筆者のような物好きな旅人が訪れる場所となっています。