中学生の頃から英語が好きでした。中学一年生の時、入塾して最初の塾の英語の授業で、アルファベットが書けなかったのは私だけでした|д゚) でも新しい分野だったからこそ、英語はとても新鮮でした。私にとっての英語は、「家→公立中学→塾→家」の極小の狭い世界に生きている自分を、未知の世界に連れていってくれる「アラジンの魔法の絨毯」のような存在でした。 勉強する程、未知の価値観に出会えました。日本に産まれ、日本で生きている中で無言の圧力として感じていた、求められる女性像=「大人しくて芯があり、我慢強い女性」のようなものから一気に解き放たれる快感を英語を通じて体感していました。 英語圏に生きる女性は、いつも私のヒロインでした。マドンナが私の最初のヒロインだったかもしれません(^^; 女性が自分の個性を押し殺さなくて良く、かつ個性を武器にして生きる姿は中学生だった私にはとんでもなくカッコよく映りました。 いつしか英語の勉強が趣味になっていました。そして高校生で受験勉強に明け暮れている間に、こともあろうかやり過ぎた英語に、私は疲弊してしまいました。これ以上英語を続けられるか分からない・・。そのくらい、大好きな英語に受験勉強で疲れてしまいました。楽しむ心を無くして義務になってしまったから、です。結局、大学からは他言語を始める事にし、スペイン語を選択しました。 大学の授業の中でスペイン語の「貿易」の授業を選択した時、始めて世界の物流が見えたような気がして、私は貿易に強い憧れを持つようになりました。 就職して夢が叶い、専門商社でしたが、輸入・輸出・三国間貿易などの貿易事務に携わる事が出来て、本当に楽しかったです。自分がパソコンで打った、最終到着地(Destination)が記載されたシッピングマークを付けたコンテナーが船に運ばれていく様を港で目にした時は、自分の小さな仕事が海を越えて荷物となって運ばれ、誰か知らない外国の誰かの役に立つ事を考えて、胸を躍らせていました。世界の物流の一端に関われた感動を生涯忘れらません。今でも道路を運ばれていくコンテナーを見ると、胸に手を当てて感動してしまうくらい、コンテナーは私の夢の固まりです。そのコンテナー一つ一つに、沢山の人々の夢の仕事が詰まっているから。 そんな私の二十代の仕事三昧の日々の中で、輸出時に貨物にかける海上保険に関し、海上保険の会社の貿易研修に行く日があ…
二人の子育てをしながら自分が女性として社会で生きていく不自由さの中で、「時間勤務での仕事」への復帰の厳しさも感じました。 歳をとってからとても感謝するようになったのは、自分が恵まれた教育を受けさせて貰えた事です。 女性は、質の高い教育を受けられたか受けられなかったかで、自分で人生を選択できるか、それとも結婚というシステムに従属するしかないかの未来が決まってしまうような気がするのです。 子供を産む未来を考えた時に、選択肢が、二つしかない、、?? 大事なのは、「選択肢があるべき」という事だと思っています。産まれて来て、自分の職業を自分で選択出来る自由、自分の人生を自分で決められる自由、、。自由を勝ち取る為には、女性には沢山の闘いが待っています。 まずは、親との闘い。親はいつまでも子供を自分の思い通りにコントロールしていきたいという気持ちを持っています。 私は一人っ子の女の子でしたので、結構な圧力がいつも存在していました。 両親にもどこかで、子供は自分ではないという事、自分の所有物ではないという事を理解して貰わなければならなかったので、何度も話し合いもして来ました。 子供を産むかもしれない人生だからこそ、子供を産んでから気付く事があります。 女性の人生は、本当に難問だらけ。若いうちはとりあえず従うしかありませんでした。 何故なら日本では、みんなが我慢しているからです。戦後の、敗戦にもどんな屈辱にも耐えに耐えて国を1から大きくしてきた先人達のように、文句を言うな、ただ黙って上に従って、耐えに耐えて我慢するんだー。そんな価値観で若い人達を一喝する日本の年配の方々の多さ。 そして、私は最初に社会に出た時にそのような人達と「闘うな」と教わりました。闘っても、あなたが大変になるだけ。 問題が根深過ぎるから、関わらないようにする、表面上従って心を逃がす、そんな方法を私は日本の社会で先輩方を見ながら学んで来ました。 これが、日本の社会の「建前」と「本音」の違いです。外国人からは全く理解されない価値観であり、私は海外に留学した事もあるので、この日本独自の価値観が、どんどん受け入れられなくなりました。 日本の社会では、我慢が全てらしい。ぶつかって勝ち取るアメリカとは大違い。むしろ真逆ー。 日本では、本音を言う事が、社会的に許されない。何故でしょう??? 「困る人」が居るからです。それは、例えば、みんなに嫌な仕事を押し付…
「手紙」と「英語の筆記体」の衰退 英語の筆記体が衰退して当たり前だと考える人達がいます。筆記体は日本における漢文の漢字のようなもので、既に衰退して久しいし、若い世代で使う人なんてもういないし、当たり前の現象だとー。 本当に「英語の筆記体」は、衰退してもいいのでしょうか? それと「手紙」の関係性について今日は考えてみたいと思います。 突然ですが、私は「手紙」が好きです。 「手紙は証拠になるから怖いし、賢い方法ではない」だの、「貰っても仕方ない」だの、なんと言われてもへっちゃらです。 好きな物は好き。だから、仕方がない。手紙には、紙の温もりがあるんです。今日の感情を表すのに適した紙は、明日の感情を表すのに適した紙とは言えない。そんなところからも分かる通り、手紙には個性がある。紙の持つ独特の風合いやそれぞれの温もりを手にした時、いつも心が癒されるからです。 手紙を書くのが好きな人は、大抵は受け取るのも好きな人であり、反対に手紙を書くのが好きでない人は、多分受け取るのも面倒なのかもしれませんー。 手紙というのは、その人を如実に表します。私は昔、物凄い本気のラブレターを何回か貰ったことがありますが、その形式が自分と余りに違うので、都度とても驚いた記憶があります。その中で一番驚いたのは、色々感情を書いて頂いた後に、最後に付き合ってもいいと思う場合は可に〇、付き合わないという場合は不可に〇を書いて、返信用封筒に入れて送ってくれというものでした。選択肢がどちらかしかない・・、というのはいつも私の苦手なものです。女性にはもっと沢山の感情と方法があるからです。まずはその人をもっと知る、とか、今は分からないけど友達として付き合ってから考える?とか。時間を下さい・・とか。でも、今考えるとその人にとっては、選択肢は二つしかないという事を表していたのだと思います。結局迷って、不可に〇を付けつつも、余りに上からジャッジしている感が嫌で、色々フォローのコメントと御礼と、これからも今まで通り普通に接してほしいという内容を3時間くらいかけて添えた記憶があります。 私には、親友と呼べる人が明らかに二人居ます。一人は高校時代からの友人ですが、大学が一緒だった事で急接近。アルバイトも一緒、冒険も一緒、海外旅行も一緒、、、と、もはや私の人生の青春時代は、彼女無しには語れない程いつも近くでお互いに助け合って来ました。小さなアクセ…
戦争が本格化し、美男もシラノも戦場に行きました。その間、美男には内緒でシラノは美男の名前で戦場から1日2回もロクサーヌに情熱的な手紙を書き続けていました。長年の想いを綴るのに、戦争中でも何の困難もありませんでした。溢れる想いを鳥の羽のペンにインクをつけてしたため、美しい筆記体で記していく手紙には、時々涙の跡やインクの滲み、興奮して急いで書くのであちこちにインクが垂れた跡があったり、指紋がついてしまったり、拳を握ってクシャッと折れてしまったり。それはそれは個性的で情熱的な手紙でした。それに気付いた美男は、彼女に想いを打ち明けるべきだとシラノに言いましたが、戦争で美男は帰らぬ人となってしまいます。ロクサーヌは、自分への情熱的な愛の手紙は全部、美男の夫からだったと信じたままー。シラノの彼女への想いは、永久に封印されてしまったのです。 喪に服するロクサーヌでしたが、歳をとってシラノと最後のささやかな昔話をしている最中に、手紙の主がなんとシラノだった事に今更気が付いたのでした。それが分かったロクサーヌは、鼻の事など気にもせず、ただシラノを愛しているから生きてくれと伝えましたが、そのささやかな最後の愛も叶わぬままシラノは天国に召されてしまいます。ロクサーヌの腕の中で静かに亡くなったシラノの上を通り過ぎていく風と、木々のざわめき。ロクサーヌの衣装はいつもドラマティックなまでに美しく、現実離れした視覚的美しさの中、極上の言葉が紡がれていく、極めて芸術度の高い映画です。 不便さの中にはドラマがあり、その人にしか紡ぐ事の出来ない言葉や振る舞いがあります。不便だからこそ、一生懸命会いに行ったり想いを伝えようとして、ドラマが産まれたのでしょう。 SNS 逆にSNSは、理不尽な事に我慢しないために協力し合う時には圧倒的な効果を発揮すると思います。証拠写真なり動画を撮り、しっかり正しく主張すれば、こちらが正しければもう我慢しなくて済むのです。私は実際に、長年両親が受けていた近隣の方からの嫌がらせを、動画を撮り文章を作り、警察に持ち込むことで解決してしまいました。両親は数十年我慢し続けていましたが、この新しい方法の導入で、半年足らずで解決に持ち込むことに成功しました。活用すべき場所で活用する、がSNS使用の新基準だと思えば、それ以外のところでは縛られない為の良い距離感も必要かもしれません。 筆記体と手紙の…