英語の筆記体が衰退して当たり前だと考える人達がいます。筆記体は日本における漢文の漢字のようなもので、既に衰退して久しいし、若い世代で使う人なんてもういないし、当たり前の現象だとー。
本当に「英語の筆記体」は、衰退してもいいのでしょうか?
それと「手紙」の関係性について今日は考えてみたいと思います。
突然ですが、私は「手紙」が好きです。
「手紙は証拠になるから怖いし、賢い方法ではない」だの、「貰っても仕方ない」だの、なんと言われてもへっちゃらです。
好きな物は好き。だから、仕方がない。手紙には、紙の温もりがあるんです。今日の感情を表すのに適した紙は、明日の感情を表すのに適した紙とは言えない。そんなところからも分かる通り、手紙には個性がある。紙の持つ独特の風合いやそれぞれの温もりを手にした時、いつも心が癒されるからです。
手紙を書くのが好きな人は、大抵は受け取るのも好きな人であり、反対に手紙を書くのが好きでない人は、多分受け取るのも面倒なのかもしれませんー。
手紙というのは、その人を如実に表します。私は昔、物凄い本気のラブレターを何回か貰ったことがありますが、その形式が自分と余りに違うので、都度とても驚いた記憶があります。その中で一番驚いたのは、色々感情を書いて頂いた後に、最後に付き合ってもいいと思う場合は可に〇、付き合わないという場合は不可に〇を書いて、返信用封筒に入れて送ってくれというものでした。選択肢がどちらかしかない・・、というのはいつも私の苦手なものです。女性にはもっと沢山の感情と方法があるからです。まずはその人をもっと知る、とか、今は分からないけど友達として付き合ってから考える?とか。時間を下さい・・とか。でも、今考えるとその人にとっては、選択肢は二つしかないという事を表していたのだと思います。結局迷って、不可に〇を付けつつも、余りに上からジャッジしている感が嫌で、色々フォローのコメントと御礼と、これからも今まで通り普通に接してほしいという内容を3時間くらいかけて添えた記憶があります。
私には、親友と呼べる人が明らかに二人居ます。一人は高校時代からの友人ですが、大学が一緒だった事で急接近。アルバイトも一緒、冒険も一緒、海外旅行も一緒、、、と、もはや私の人生の青春時代は、彼女無しには語れない程いつも近くでお互いに助け合って来ました。小さなアクセサリーを付けた華奢な体型、茶色くて柔らかい髪に少し緑がかった瞳でクスクスとよく笑う愛らしい彼女がいつも私と一緒に居てくれた事、私の辛い時期には必ず寄り添ってくれた事、今もずっと忘れません。お裁縫も上手で、女性らしい一面を持った素敵な女の子でした。今は海外で暮らしているけれど、彼女の美しさと聡明さ、相反して突き抜けた行動力は、私を夢中にさせるのに充分でした。
そして社会人になってから出来たもう一人の私の親友は慶応大学出身で、ヨットなどのマリンスポーツをしていて、とてもととても勝ち気で頭が良く、実際物凄く仕事も出来ました。どんな相手にも正直にぶつかっていく彼女は、本当にカッコよかった。人生の戦友のようでもあり、仕事上のライバルでもありました。一緒に仕事帰りにフランス映画をよく観に行きました。その度に、女性の生き方について沢山語ってきたものです。主張の正直さゆえに、たまにぶつかり合う日もありましたが、お互いゆっくり休んでまた自分を整えると、やはりお互いまた一緒に情報交換をせずにはいられなかった。彼女との時間は、いつもそのくらい有意義な時間でした。それぞれの世界に戻ってまた別のステージで闘うお互いを、認め合って励まし合って来ました。
気が付くと、人生で、彼女達から何百通という手紙を貰ったと思います。気付いたらそのくらいたまってしまいました。二人ともとても字が上手で、それぞれの特徴がありました。
愛らしい彼女によく似合う、整って綺麗な、でもどこか儚く愛らしい薄い字。その字でいつも、次に一緒にやりたい事を箇条書きにしてイラスト付きで描いてくれたり。それはそれは、とても夢のある個性的な手紙でした。
そして、かたや強い意志を感じる、カッコ良く流れるように整った強い字。そこには、自立した女性の強い字がありました。紡がれる言葉も、意志的なものばかり。それらに励まされて、私はどんどん影響を受けていきました。20年前の彼女の手紙には、「10年後の自分達がどんな風になっているか、楽しみに頑張ろう!またフランス映画行きたいね」と書いてありました。筆圧も高く、頭の良さを伺わせる癖が強い流れるような文字で紡がれた意志のある言葉と、美しい女性の無言の後ろ姿などの絵葉書は、いつも私の想像をかきたて、また彼女と自分らしい生き方を追求して行きたい!次に会える時までに、自分をもっと誇れるようになって、彼女と同等に大人として語り合いたい!そんな夢を持ちながら、日々、英語の貿易事務の仕事に従事していました。会社でいつも向こうの遠くに見える彼女が、時々私に会いに来てくれるのが嬉しかった。会社帰りに、男性とではなく、カッコ良くて頭のキレる個性的な彼女と、一緒にフランス映画を観たり、芸術鑑賞に行って新たな価値観に触れては語り合う日々が、私の本当に楽しみな時間でした。
彼女たちからの何百通の手紙は、私の宝物です。儚げな美しさを宿す手紙と、かたや強い女性の意志を感じる手紙でした。だから私も、便せんや絵葉書、季節に合った美しい切手、万年筆のインクの色と濃さに至るまで、送られる日の彼女達の気持ちに合わせて、全てを彼女達の心情に合わせていました。落ち込んでいる時は優しく癒されるようなものを、頑張っている時はちょっとスパイスの効いたエッジィなものをー。彼女達の事が大好きだったから、いつも喜ばせたいと思っていました。その気持ちは相手にも伝わり、いつも素敵な見たことも無いような美しい手紙が私にも届いて、中にいつも美しい字で「あなたを誇りに思う。あなたはとても素敵。こういうところが大好き。これからもあなたのままで」と書かれていました。
会社から疲れて無言で泣きたいような気持で帰宅する夜、私に届く、彼女達からの「負けないで。あなたならきっと大丈夫。私がついているよ」のメッセージが書かれた美しい手紙は、私をずっと支えてくれました。その心の支えの手紙を、翌朝カバンに入れて、通勤の満員電車の中で読んで、心を整えていました。彼女達の手紙は魔法のように、私のささくれだった心を癒してくれたものです。
手紙を見ると、どのペンで書いたかも分かりました。彼女が一番書き易いと言っていた水性ボールペンの0.4mmで書いたものだな、あなたに手紙を書くと使いすぎて、すぐインクが無くなっちゃうのよねと笑いながらいつも三本は同時に買っていたな・・そう言えばそろそろまた一緒にあの文具屋さんにまとめ買いに行く頃かな、その後にあのお店で彼女と一緒にお茶を飲みたいな、、などと相手の事を考えながら文具を選ぶ時間、または手紙を書く時間は私の楽しみでもありました。
(「手紙」と「英語の筆記体」の衰退~2.へ続く)