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映画「ボヘミアン・ラプソディー」を通じてフレディー・マーキュリーの生涯を讃えたいⅠ

 
イギリス伝説のロックバンド「QUEEN」の映画 「Bohemian Rhapsody (ボヘミアン・ラプソディー)」       フレディー・マーキュリー没後27年(2018年)に公開       ロックにオペラの融合など、誰にも真似できない、聞いたことの無い音楽とその芸術性の高さで魅せる!  何故私達はこんなにも、フレディーが好きなのだろう!!!    泉のように滾滾と、心の奥底から湧き出てくる情感は、蓋をしてもあれよあれよという間にあなたの外に流れ出る。そしていつしか、あなたからとめどもなく溢れ出る、否定しきれないその情感こそ、あなたがフレディーから愛を受け取っている証だったのだと気付く時が来るでしょう。    せき止めても、蓋をしてもー。身体からどうしようもなく湧き出てくる血のように、流れ出て、あなたを深紅に染め上げるその熱くて濃い例えようもないこの感情は、いつしか本物の愛に変わりゆく事でしょう。    QUEENの音楽を聞けば聞く程溢れ出るこの情感は、もはや愛としか説明のしようがないものではないでしょうか。          圧倒的なパフォーマーであり続けたヴォーカル フレディー・マーキュリー    「唯一無二」、という言葉すら、彼の前では霞んでしまうほど。  こんなに圧倒的なパフォーマンスが出来るのは、彼、しかいないのですー。    本物の彼の圧倒的な存在感の前では、彼への熱狂的な賛美の言葉すら全て陳腐に聞こえてしまう程。    「本物を感じる事の素晴らしさ」の前に、溢れる賛辞の言葉はまるで空中を上滑りするかのようー。フレディー・マーキュリーのその存在の大きさには、いつ見ても、圧倒されます。              セクシャルそして自身のルーツも全部マイノリティー だからボヘミアン・ラプソディ-    フレディーを全身で感じた時、私達はさっきまで言い争っていた全ての隣人や、敵と感じていた存在の事を忘れる事が出来ます。    そして彼の人生を丸ごと感じた今なら、簡単に手を取り合う事すら出来るのです。    例え一時間前まで憎悪に満ちていたとしても、敵と思っていたその相手ですら、敵で無くなる事でしょう。本物というのは、それだけの影響力があります。    何故なら彼の人生は、「みんな同じ、苦しむ一人の人間である」という事をそのまま体現しているからです。              フレディ-が生きていたのが現代なら、こんなに苦しまずにすんだでしょう。      現代まで生きていたら・・彼も晩年のパートナー ジム・ハットンと結婚出来ていた  時代が変わるスピード…
スコア: 1.06
2018/12/08

映画「ボヘミアン・ラプソディー」を通じてフレディー・マーキュリーの生涯を讃えたいⅡ

 
  フレディー・マーキュリー役 ラミ・マレックの繊細で緻密な演技が圧巻  イギリスの伝説のロックバンド QUEENの圧倒的でユニークなボーカル、フレディー・マーキュリーを、一体誰が演じたのだろう?未視聴の方には非常に興味があるところでしょう。    主役となったのは、イギリスの俳優、ラミ・マレック。その名を聞いて、彼の今までの代表作を言える人はどのくらいいるでしょうか?                フレディーの身長は177センチだったと言われています。ごつい身体に顔も長く、歯も出ていて、かなり特徴的な見た目であるのに対し、それを演じたラミ・マレックの印象は    「175センチもあるかなあ?しかもかなり細くて痩せていて気が弱そう..」  (私見です)と感じてしまうくらい、普段のラミは、フレディーの一番対極に居るような見た目です。普段のラミを見ていたら、  「フレディーを演じる?覇気がなさそうだし、カリスマを演じるのはもっとパワフルな人がいいんじゃない?」  と言いたくなりそうなほど、静かでおとなしい印象。ちょっと線の細い人がフレディーやってるなあ・・という感じだった事は否めません。私はフレディーの大ファンなので、  「私のフレディーを、勝手に適当な映画にしたら許さないぞー!」    くらいの気持ちで観ており、初めはミスマッチだと思いながら観ていました。フレディーの幼少期のあだ名はバッキー(前歯を意味する)。顔に比して飛び出た前歯がコンプレックスでした。        映画の中で随所に、前歯上の上唇を二本の指でおさえているシーンというのがクローズアップされているところからも、本人はとても気にしていたことが伺えます。ラミはその仕草を映画で随所に入れていました。ただ、ボーカルになってからのフレディーは歌声が変わる事を恐れ、矯正したりする事はしなかったと言われています。          映画の中では厳格な父親はいつもフレディーに冷たく、その存在を全く認めていないようでした。お母さんも生活に苦労しているようで、家の中が明るく楽しい・・という雰囲気ではなかったようです。当時イギリス領だったザンジバルの革命により、フレディー一家は安全を求めてロンドン郊外に移り住んだのです。      全てはフレディーになる為に  前歯を装着、顎を激しく落とした横顔、目力、動きの完コピで尋常じゃないパワーを表現  ライブハウスでロックバンドの演奏を観ているフレディー。  バンドのメンバーの前で歌ってみるフレディー。  茶目っ気たっぷり…
スコア: 1.08
2018/12/08

映画「ボヘミアン・ラプソディー」を通じてフレディー・マーキュリーの生涯を讃えたいⅢ

 
QUEEN フレディーマーキュリーが全身で表現していたのは、多様性への寛容では無かったか    彼らはもともと完璧だったのでしょうか?  そもそも完璧って何?  人種?血筋?  代々続く名家?  お金持ちである事?  いいえ、違います。彼らはむしろ、対局の場所に居た、「はぐれ者」とも言えるほど普通の人々だった筈です。  フレディーも勿論、厳格な父親から認めて貰えないような、愛を求める孤独な青年でした。だからこそ、人の心の痛みが分かるのでしょう。人々の心を動かすような、彼の内面の葛藤や苦しみを表す哀愁に満ちた歌を創れたのです。  フレディー・マーキュリー、彼こそが、世界の偏見と非寛容の中で傷付いた1人の小さな少年だったのです。      そしてその『怒りや悲しみが爆発的なエネルギー』となって、音楽や芸術を伴って外に出て来た時、人はそれを「天才」と呼ぶのでしょう。    改めて芸術や音楽を考える 芸術とはそういうものではないでしょうか?  ピカソがスペイン内戦中にドイツ空軍によって行われた都市ゲルニカの無差別爆撃にショックを受けて、怒りと共に製作した「ゲルニカ」然り。    異端審問所に呼ばれながらも、目を覆いたくなるような戦争の惨状からゴヤが描いた「我が子を喰らうサトゥルヌス」然りー。      ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクが描いた「叫び」然りです。   ムンクは幼少期に母親を亡くし、思春期に姉の死を迎えるなどして、病気や死について考えざるを得ない状況下にあったと言われています。      自分にしか出来ない事、それを追求した者達にしか見えない世界があります。本当の芸術は、時代へのアンチテーゼや自身の苦しみの体験から産まれる事が多いのです。  戦争や、正義を振りかざすエゴイズム、矛盾、人間同士の醜い覇権争い、それにより罪の無い者達が残虐に殺されたり、弱い物が犠牲を強いられる恐ろしい惨状ー。惨状の形は変わっても、人間社会の根本はこんなにも、まだ変わっていないのです。人間に産まれた業とも言えるものかもしれません。時代はこんなに変わっても、人間社会に生きる苦しみの根本は、何も変わっていないのです。     QUEENの音楽は、爆発的なパワーと圧倒的な芸術の共存 それは誰もが認めるところでしょう。フレディーの持つ圧倒的な美意識と、人間社会で苦しみ歪められた繊細な感情が歌になっているからこそ、彼そのものを表していたのです。  『自分の弱さを表現する』事を恐れず、世界に挑戦し続けた…
スコア: 1.19
2018/12/16

映画「ボヘミアン・ラプソディー」を通じてフレディー・マーキュリーの生涯を讃えたいⅣ

 
      このまま結婚する筈だったのに、フレディーはレコード会社の上司の男性と関係を持って、でもメアリーも失いたくない、そんな難しい状況になって葛藤していきます。最終的に彼女はパートナーとしての関係は解消しますが、人間としてのフレディーの行く末を、いつも心配していました。フレディーは自分の近所に彼女の為に住む場所を買い与え、せめて友達としては自分を見捨てないで欲しいと思っていたようです。スターダムに上っていく彼はメアリーを失って、世界中をツアーしなければならず、戻る場所がどんどん無くなっていったのです。糸の切れた凧のようにどこまでも飛んで行ってしまったようでした。        メアリーとはたまに連絡を取りつつも、彼女には別のパートナーも出来て、寂しさを生める様にパーティー三昧の乱れた日々を続けてしまいます。もう誰を信じていいのかも分からないくらい、沢山の人々に囲まれて。フレディーも沢山の人々と関わりを持ちすぎて、誰が敵で誰を信じていいのか、もう分からなくなっていました。      根底では、ずっとずっと淋しかった  大人になっても、沢山の人々に囲まれても。世界中から愛されているスターの孤独。誰からも愛されるという事は、誰からも愛されていない事と同義だと聞いた事がありますが、そんな事を思っていたのかもしれません。パワフルで繊細でゴージャスなフレディーは、内面は穏やかで優しい、人恋しい、淋しくて仕方ない、そんな人だったのでしょう。        フレディーは晩年のパートナー、ジム・ハットンよりメアリーに多く財産を残した    晩年のパートナー、ジム・ハットンも、フレディーからの感染と言われるHIVに感染していましたが、それをフレディーは知らないまま、亡くなりました。ジムからの思いやりだったのでしょう。ジムと一緒にいる時のフレディーの穏やかな表情は、舞台の上のQUEENのフレディー・マーキュリーとは全くの別人のようです。心優しく穏やかな顔。      バンドのメンバーにもフレディーの私生活は謎だったとか。バンドのメンバーはみんな結婚して家族がおり、フレディーはバイ・セクシャルである事はプライベートな事だから、なるべくバンドのメンバーには知られたくなかったのでしょう。どこの国にツアーに行っても単独でゲイ・バーにフラフラと行っていた様子が、日本での最近のテレビから分かりました。    日本でおしのびで通っていたゲイ・バーの「九州男(クスオ)」の店主だった男性…
スコア: 1.01
2018/12/18

映画「ボヘミアン・ラプソディー」を通じてフレディー・マーキュリーの生涯を讃えたいⅤ

 
   映画「ボヘミアン・ラプソディー」事実と違うところ!?   映画自体は、「フレディーの人間性」に焦点が当たっています。事実と異なる箇所も実際かなりありました。  例えばソロデビューしたのは、ドラムのロジャーテイラーの方が先だとか、フレディーのHIV(AIDS)感染が分かったのはライブエイドの前(1985年)ではなく、二年後の1987年だったとか。   限られた時間内で映画化するには、どこかに焦点を当ててまとめあげる必要があったのだという事が分かります。  実際はフレディーのゲイ・カルチャーでの派手な奇行ぶりや、ドラッグ、酒、セックス、パーティーといった乱れた私生活、音楽性の方向などでライブ・エイド前は解散危機だったのです。        しかしそもそもクイーンの四人はそれぞれがソロ活動が出来る程の、異なる音楽性を持つ個性の集まりでした。ギターのブライアン・メイが父親と作ったところから始まるこだわりのギターが奏でる奇跡的な音色は独自の音が出せるようになっていたから、シンセサイザーに頼る事はしませんでした。  解散危機にもあったクイーンですから、ドラムのロジャー・テイラーはフレディーよりも先にソロ活動を始めていたし、ブライアン・メイとロジャー・テイラーとの音楽の方向性へのケンカの際はいつもフレディーが仲裁していたとか。  勿論フレディーの個性も含め、いつもみんなでケンカをしながら製作を続けていたそうです。それは各々の個性とプロ根性から来るもので、実際それで良い物が産まれていったようです。仕事への情熱が強いメンバーの集まりだったんでしょうね。      ロジャーの声はドラマーとはいえ、少年時代に聖歌隊で鍛えた美しいソプラノ・ボイス。本当に素晴らしい歌唱力で、それにも驚きます。「I'm in love with my car」を歌うロジャーの若いソプラノ・ボイスと激しいドラムは感動もので、1人でも充分にやっていけていたのです。     最後の恋人、ジム・ハットンを探すために電話帳で片っ端からあたるというのも事実とは異なりますが、フレディーの執拗なこだわりと執念と熱意なら、出来ない事でもやって可能にしてしまうという点で、筋としてはおかしくないと考えられます。  実際はゲイ・クラブで何回か会って、フレディーからのおごりのお酒を断っていたジムが、最後はお酒をごちそうになる事になるそんなやりとりなのですが、この映画に色濃くゲイ・カルチャーに耽溺…
スコア: 1.47
2019/02/17

映画「ボヘミアン・ラプソディー」を通じてフレディー・マーキュリーの生涯を讃えたいⅥ

 
フレディーが残した「日本語」の歌   本国イギリスでまだ認められていない時に日本で大ブレイクを果たし、勢いづいたクイーン。フレディーは日本の為にも、日本語で作ってくれた歌、「手をとりあって(Teo torriatte)<Let us cling together>」を作ってくれていました。      日本らしい慈愛に満ちた静かな歌で、東日本大震災の時にはチャリティーソングとしてCDに収録されています。ブライアンとロジャーがメッセージもくれました。    <手を取り合って このまま行こう 愛する人よ>  <静かな宵に 光を灯し 愛しき教えを抱き>           歌詞の原案は、1976年のクイーン再来日公演時に通訳を務めた鯨岡さんという女性がフレディーに頼まれて、彼の書いた歌詞をもとに日本語に訳したようです。ホテルやコンサート会場の片隅で、フレディーの注文に必死で応えて出来上がった歌詞なのだそうです。1977年に発表された5枚目のアルバム「華麗なるレース」に収録されていて、ファンの間では根強い人気があります。    フレディーがスペインに捧げた歌「バルセロナ」が出来るまで   どの国に行っても、大切な歌を残してきたフレディー。  チャレンジャーでもあり移り気でもあった彼は、ミュンヘンとN.Y.でクラブ三昧の日々を送り、それらからヒントを得たクラブのダンス・ミュージックを1985年にソロ・アルバム<Mr. BAD GUY>で発表していますが、これらは余りヒットしなかったようです。ブライアン・メイはこの頃の事を「フレディーは自身の独自のものを追求したいと言っていたが、出来上がったものの殆どはどこかのクラブ・シーンでよく聞く類のもので、僕はそれらを余り受け入れられなかった」と。   そんな事もあり、その後のフレディーはクラブ・ミュージックを捨て、ありとあらゆる仕事をコツコツとこなしていきました。ステージ・ミュージカル『タイム』の為のスケールの大きな主題歌、1955年のプラターズのヒット<グレート・プリテンダー>のカヴァーをシングル・リリースなど、今までにも増して精力的に仕事をしました。  彼はある日、友人とオペラを観ていて、スペインの伝説的なソプラノ女性歌手「モンセラ-ト・カバリエ」の驚異的な天使のような歌声をとても気に入ってしまいました。  どうにか彼女とお近づきになりたかった彼は、スペインにツアーで行った時に「カバリエに会えるかもしれないと…
スコア: 1.69
2019/02/15

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