フレディーが残した「日本語」の歌
本国イギリスでまだ認められていない時に日本で大ブレイクを果たし、勢いづいたクイーン。フレディーは日本の為にも、日本語で作ってくれた歌、「手をとりあって(Teo torriatte)<Let us cling together>」を作ってくれていました。
日本らしい慈愛に満ちた静かな歌で、東日本大震災の時にはチャリティーソングとしてCDに収録されています。
ブライアンとロジャーがメッセージもくれました。
<手を取り合って このまま行こう 愛する人よ>
<静かな宵に 光を灯し 愛しき教えを抱き>
歌詞の原案は、1976年のクイーン再来日公演時に通訳を務めた鯨岡さんという女性がフレディーに頼まれて、彼の書いた歌詞をもとに日本語に訳したようです。ホテルやコンサート会場の片隅で、フレディーの注文に必死で応えて出来上がった歌詞なのだそうです。1977年に発表された5枚目のアルバム「華麗なるレース」に収録されていて、ファンの間では根強い人気があります。
フレディーがスペインに捧げた歌「バルセロナ」が出来るまで
どの国に行っても、大切な歌を残してきたフレディー。
チャレンジャーでもあり移り気でもあった彼は、ミュンヘンとN.Y.でクラブ三昧の日々を送り、それらからヒントを得たクラブのダンス・ミュージックを1985年にソロ・アルバム<Mr. BAD GUY>で発表していますが、これらは余りヒットしなかったようです。ブライアン・メイはこの頃の事を「フレディーは自身の独自のものを追求したいと言っていたが、出来上がったものの殆どはどこかのクラブ・シーンでよく聞く類のもので、僕はそれらを余り受け入れられなかった」と。
そんな事もあり、その後のフレディーはクラブ・ミュージックを捨て、ありとあらゆる仕事をコツコツとこなしていきました。ステージ・ミュージカル『タイム』の為のスケールの大きな主題歌、1955年のプラターズのヒット<グレート・プリテンダー>のカヴァーをシングル・リリースなど、今までにも増して精力的に仕事をしました。
彼はある日、友人とオペラを観ていて、スペインの伝説的なソプラノ女性歌手「モンセラ-ト・カバリエ」の驚異的な天使のような歌声をとても気に入ってしまいました。
どうにか彼女とお近づきになりたかった彼は、スペインにツアーで行った時に「カバリエに会えるかもしれないと思ってスペインに来たのだ」とマスコミにの取材で応えました(フレディーらしいやり方です!)。
フレディーの狙い通りそれを本人が見ていたらしく、彼女の方がバルセロナで会う段取りを付けてくれ、リッツ・ホテルの特別室で顔を合わせる事になったのだそうです。
フレディーは自己紹介するとカセット・テープを取り出し、せきこむように言った。「これを聞いてもらおうと思って」。
テープに入っていたのは「エクササイズ・イン・フリー・ラブ」という、彼がマイク・モランと一緒に作った曲でした。モンセラートはそのデモ・テープが気に入り、フレディーとアルバムが作れたら嬉しいと言ったそうです。
その一週間後くらいに今度はフレディーがロンドンの自宅にカバリエを招待したそうです。フレディーはもてなしの達人。カバリエの好きな食べ物をちゃんと調べて、魚とパスタを用意。楽しく過ごしたカバリエと、マイク・モランとフレディーは明け方までセッションをしていたそうです。そのようにして出来上がっていったモンセラ-ト・カバリエとの共作が「エクササイズ・イン・フリー・ラブ」や「バルセロナ」です。
旅で訪れたスペインのイビサ島では、五年後にスペインでオリンピックが開催される事を祝って開かれたイビサ ’92年フェスティバルに予告なしでフレディーとカバリエが出演し、「バルセロナ」を歌い大盛況を博しました。
この曲がここにいる人全員に誇りを感じさせているのがわかった。涙を流している人すらいた。歌が終わると拍手が沸き起こった。飛び上がって両手を振る人も、ジャケットを脱いでステージに投げる人もいた。若いスペイン人のグループが興奮して言っているのが聞こえた。「新しいスペイン国歌だ!」
1987年、オペラとクラシックの世界に挑んだフレディーは、1988年10月にモンセラと共にスペインの国王と王妃に招かれ、バルセロナのナショナル・パレス・オブ・モンジュイックの階段で<バルセロナ>を歌ったのです。
そして1992年のバルセロナ・オリンピックの正式なアンセムにこの<バルセロナ>は選ばれたのですが、そのコラボレーションをオリンピックで披露する事はできませんでした。競技がスタートする7か月前の1991年11月24日にフレディーは亡くなってしまったのです。
いかにあっという間の出来事だったか分かります。この若さで、偉大なロック・スターはまだまだ進化を遂げていたのですから、もっと最後まで生きていたら今はどんなに成熟した存在になっていたのだろうと思うと、とても淋しい気持ちです。ロジャーもブライアンも2019年現在、ご健在ですからね。
(ロジャーはソロとして、ロックの真髄を極めていきました。彼の息子も今はドラマーで、父親と同じ道を歩んでいます。ロジャーの晩年の曲はもう、本当に円熟味を増した素敵な曲が多く、フレディーとはまた違う深みを出しています。それはブライアン・メイも同じで、本当に才能豊かな個性的なメンバーの集まりだった事が伺えます)
AIDS闘病中の晩年のフレディーをマスコミに売ったポール・プレンターとは一体何者だったのか
1977年~1986年まで、9年近くもフレディー・マーキュリーの個人マネージャーを務めていたポール・プレンター。フレディーとは恋人関係にあったと言われていますが、彼は相当曲者だったようです。
クイーンメンバーからの連絡をわざと引き継がないでフレディーを独占して自分を頼るように画策していったり、クイーンとの仲を割こうとしたり。ライブ・エイドへの招待の連絡すら取り継がず、メンバー達もポールには相当困らされていたそうです。
自分は異性愛者だと信じ込もうとしているフレディを悪仲間にどんどん紹介していき、悪い事の全てを教えていったような存在として映画では完全な悪役でした。事実クイーンメンバーからポール・プレンターは相当嫌われていたようです。クイーンのバンドメンバーの仲を裂く存在だったのですから当然でしょう。フレディーもポールの言う事を全面的に信じ、どこに行くにも同行させていました。クイーンのメンバーは、やり辛かった事でしょう。
フレディーをゲイ・カルチャーに引き込み、ニューヨークのゲイ・クラブで放蕩三昧、メアリーからの連絡も取りつがず、もうクイーンもこれで終わりかというくらい、ポール・プレンターはフレディーを独占してクイーンから引き離していきました。
ポール・プレンターは北アイルランド出身
イギリスの植民地化によりプロテスタントへの改修を迫られていた北アイルランドにおいて、ポール・プレンターの家は敬虔なカトリックを貫いた筋金入りのカトリック信仰でした。
カトリックの本家イタリアや世界で最も敬虔なカトリック教徒といわれるアイルランド共和国では、根強い反対運動を乗り越えて現在では同性婚の権利が認められているようですが、その中でも北アイルランドでは未だに同性婚は認められていないようです。
北アイルランドのカトリック信者の信仰の強さが表れているようです。現在でもそうなのですから、1980年代はどれほど同性愛への理解がなかった世の中か、想像に難くありません。カトリックでは基本的に同性愛を認めていませんでしたが、北アイルランドでは1982年にようやく同性愛が犯罪ではなくなったそうです。
ポール・プレンターがフレディーと一緒に居た頃は、彼は故郷には帰りたくなかったのではないでしょうか。
優しくて基本的に人を信じている懐の深いフレディーの元に孤独と共に飛び込んで、彼の孤独な心と自分は同じだと思わせ、スターである彼の心を独占したポール・プレンター。フレディーのお金で放蕩三昧、自己中心的でフレディーをクイーンから引き離して自分のものにしていたかった最悪の人物だったのですが、フレディーも同じ孤独なマイノリティーである彼にすっかり心を開いてしまい、毒されていたのかもしれません。
ライブ・エイドや仲間との連絡を取り継がなかった事などから最終的にフレディーの不信を買い、後に解雇されます。
マスコミにフレディーを売ったのは、勿論お金目当てと、フレディーに未練があったので振り向いて欲しかったのかもしれません。彼は1987年5月四日の『サン』紙にフレディーのネタを3万2千ポンドで売った事が分かりました。ジム・ハットン著の本に書いてあったのです。ジムによるとフレディーは、この記事を読んで打ちのめされてしまったそうです(◞‸◟)
”フレディーの恋人ふたりがエイズで死亡”という見出しが出ていて、記事は三ページにもわたって書かれていた。ブライトン出身のトニー・バスティンと、アメリカ人スチュワードのジョン・マーフィーが、1986年にエイズで死んでいた。
(下左写真のフレディーと一緒に映っているのがトニー・バスティン)
(真ん中の黒い衣服の男性がジョン・マーフィー)
そしてプレンターは、フレディがある晩遅く彼に電話をかけてきて、エイズではないかと不安に思っていることを告白したと言っている。それから数日のあいだに『サン』にはさらに記事が出た。プレンターの話が載るたびフレディの怒りはどんどん増していった。ウィニー・キルケンベルガーなど、僕と付き合う前のいろいろな恋人とフレディが一緒に映っているプライベートな写真を、プレンターは何枚も新聞に売っていた。そうした写真が二ページにわたって載せられ、"オール・ザ・クイーンズ・メン”という見出しがついていた。
フレディがドラッグ浸りになっていたワイルドな時期についても、プレンターはこと細かく喋っていた。いつもロッド・スチュワートやデヴィッド・ボウイと一緒にコカインをやっていて、ときにはゴールド・ディスクの上にコカインを載せて吸っていたという話まで記事になった。
『サン』紙に話を売ってからプレンターは何度かガーデン・ロッジに電話をかけてきたが、フレディは絶対に彼と話そうとしなかった。プレンターは自分のした恐ろしい行為を弁解しようと、マスコミに何週間もつけまわされていて、ついに耐えきれなくなり、そんなつもりはなかったのに話してしまったのだと言った。でもフレディはプレンターの言いわけなど聞こうともしなかった。こんな裏切りは許せないと彼は思っていた。プレンターの暴露事件が生んだ一番悲しい結果は、フレディが人を信じられなくなったことだ。彼が信じられるのは選ばれたほんのわずかな人間だけになった。もちろんこの事件のあと、彼は新しい友だちを作らなかった。
有名になる事の意味
文字通り、『金と名声』を手に入れて人生の絶頂を味わい、代わりに自由と平穏な心を手放さざるを得なかったフレディ。
欲に目が眩んだ沢山の人間に嫉妬され、裏切られ、心を閉ざしながら、自由の代償を償うかのように、当時は最も恐ろしいと思われていた不治の病AIDSと闘った晩年ー。晩年といってもまだ45歳で亡くなったのです。
フレディがかわいそうに思えることが僕には何度もあった。彼はすべて持っているのにー金も成功も自分のものなのにー
一度も普通の生活ができなかった。街を歩いていても、買い物に出かけても、必ずみんなにじろじろ見られる。彼はそれをひどく嫌っていた。プレンターと『サン』に傷つけられたフレディは、その両方から遠く離れていたいと思った。
美しいもの、芸術を何より愛した世界を手にした男が、最後の数年には自身のAIDSによるカポジ肉腫や、内側から自身の身体に湧き上がって来る、恐ろしい傷との闘いはどんなに彼を傷つけ、怖がらせたことでしょう。フレディーの足は晩年あちこち壊死して、見るのも辛いような傷だったようです。一部では足の切断説まで出ていますが、切断の話はジム・ハットンの本には出てきませんでした。ただ壊死した悪い個所を取ったりなどはあったのかもしれませんから、足がほとんど残っていなかった説などがあるのだと思います。
AIDSと闘った天才ヴォーカリスト フレディー・マーキュリー
フレディー・マーキュリーの人生の深さ、頂上と地獄の振れ幅は物凄く、壮絶な人生だったと思います。
幾重ものマイノリティーを背負い、人よりも早くから人生の苦しみを人一倍強く味わっていたからこそ、人よりも早く悟りの境地に達していて、表す苦しみの底深さに聞く人は自分と重ね合わせる事ができて、音楽を心底楽しむことができ、かつ圧倒されていたのではないでしょうか。
頂点を極めた男フレディー・マーキュリーの短くて誰よりも悩み深い人生を時々思い浮かべます。彼が公にする事はありませんでしたが、彼の家はゾロアスター教でした。今になると、宗教的マイノリティーもあったのかなと気付き、どこに居ても幾重ものマイノリティーの重圧の中で、人知れず苦しんでいたのだろうとも想像できるのです。
インドの男子学校の寄宿時代には、初めて男性に襲われたのではないかという事も言われており、既にそんなところからも彼が『ボヘミアン・ラプソディー』で人生の前半の苦しみを表していたのではないかと私は想像しています。
彼の熱い心の中には、『ボヘミアン・ラプソディー』のような「どうせ風は吹くんだ~という諦めにも似た仏教的悟りの境地」と、「We Are The Champions」に表される「決して負けないぞという心」があったからこそ、彼は過酷な自分の肉体の変化と闘いながら、最後まで愚痴一つ、恨み言一つこぼさなかったのでしょう。
フレディーの底なしの苦しみを味わった壮絶な人生を理解した最後のしめくくりとして、『We are the champions』の歌詞を改めて考えてから、この話を終わりにしたいと思います。
I've paid my dues
Time after time
I've done my sentence
But committed no crime
代償は払ってきたよ
何度も何度もね
判決通り 償ってきたんだ
もともと犯した罪なんかないのに
And bad mistakes
I've made a few
I've had my share of sand kicked in my face-
But I've come through
(And I need to go on, and on, and on, and on)
そりゃあ いくつかひどい間違いもしてきたさ
顔に砂を蹴りつけられたことも それなりにあったよ
でも俺は切り抜けてきたんだ
(それでも続けなきゃならない 何度も 何度も何度もね)
※We are the champions-my friends
And we'll keep on fighting till the end
We are the champions-
We are the champions
No time for losers
'Cause we are the champions
-of the world-
俺たちはチャンピオンだ 友よわかるかい
俺たちは闘い続けよう 最後まで
俺たちはチャンピオンだから
俺たちはみなチャンピオンさ
負け犬たちにかまっている時間はない
だって俺たちは
世界のチャンピオンなんだから
I've taken my bows
And my curtain calls-
You brought me fame and fortune
and everything that goes with it
-I thannk you all-
カーテンコールをもらって
感謝のお辞儀は欠かさなかったよ
観客が名声と幸運、そしてすべてのものを
運んでくれたよ
みんな、感謝してるよ!
But it's been no bed of roses
No pleasure cruise-
I consider it a challenge
before the whole human race-
And I ain't gonna lose-
(And I need to go on, and on, and on, and on)
でも薔薇のベッドや 豪華客船なんてなかったよ
それは全人類をかけた挑戦なんだ
そうさ俺は決して負けやしない
(そして続けなきゃならないんだ 何度も 何度も 何度も)
※二回繰り返し
『We Are The Champions』にクイーンメンバーは・・
フレディー作のこの歌を初めて聞いた時のことを、ブライアンはこのように言っていたそうです。
『はっきり言うけどあの曲を最初にスタジオで彼に聞かされた時、俺ら全員、床に倒れ込んで笑い転げたんだよ!』
メンバーは、いつもフレディーがふざけてばかりいるので本気なのか冗談なのかいつもよく分からない、これも冗談かと思ったというほど。フレディーはいつもふざけていて、大げさで、ヘンなヤツであったことは間違いないでしょう・・。
元気な時、友達と遊んでいる時、ご機嫌な気分の時に聞くこの歌は、「なんじゃこりゃ!ワハハ!」である事は間違いないでしょう!「俺らがチャンピオンって自分で言うか!恥ずかしー!なんだこの歌。俺ら、どんだけすげーんだよ!」
そうではないのです。悲しい時、苦しい時に一人でそっと聞いてみて下さい。
フレディーの観客と一緒になりたい心を思えば、この曲が「クイーンの平坦では無かった道のり」だけを意味しているだけではない事は明らかだからです。ただ、みんなが一体になれる歌、自分を含めてみんなを鼓舞する歌を作りたかったーそれに尽きるでしょう。
フレディーが言いたかったことはただ一つ。
「人生に負けるな 俺たちはみんな、それぞれの人生を必死で生きるチャンピオンなんだから」
彼の人生を深く知れば、理由が分かるし感動もできる。
彼はただの成功者でも、ただの快楽主義者でも、ただのゲイでもないんです(注:そう思っている訳では決してありません。
あまり彼を知らない人が、そんな風に彼の印象を片づけていると思うからです。)
また、歌詞の中の"losers"が何を意味しているか、彼の人生を知ると大体分かります。彼がファンだった名優ローレンス・オリヴィエに会った際、フレディーはマスコミに悩まされていました。根拠もなくでっち上げ、嘘ばかり書くという悩みを打ち明けると、ローレンス・オリヴィエはフレディーにこう言ったそうです。「マスコミなんか、くそくらえだ!」。大好きな名優にそう言われて、フレディーはとても元気になったとジムが記しています。歌詞の中の"losers"は、彼にとってはマスコミをはじめとする「他人の人生で飯を食っているような暇なやつら」とでも言いたかったのだと、私は想像しています。
何重ものマイノリティーの中で苦しみの中から立ち上がり、世界を知り羽目を外し過ぎ、名声と富に振り回され、人間に裏切られ、羽目を外し過ぎた代償を払うように、こんな筈ではなかったのにメンバーの中で1人だけ早く亡くならざるを得なかった短くて深い人生のーどこにあなたは共感するでしょうか?
共感できる箇所は、人それぞれ。
ただ一つ言えることは、彼はただのスターでも道化師でもなく『苦しむ1人の人間そのもの』で、むしろ正直な故にとても不器用な人だっだという事でしょう。だからこそ、根強いファンに心から愛されていたのだと思います。
この歌はクイーンのメンバーを"WE"と捉えていて、クイーンの奢りだと発表した当初は叩かれたそうですが、ブライアンも後に「この曲は自分たちをチャンピオンだと歌っているのではなく、世界中の一人一人がチャンピオンなのだと歌っているんだ」と応えています。
私達はクイーンから、とりわけ短く壮絶な人生だったフレディーから、沢山の愛と強く生きることを教えて貰いました。
ロジャーとロジャーの息子さん 似てる!?
驚くほど可愛い美少年だったドラムのロジャー・テイラーとその息子さんです。息子さんもカッコイイですね!!
人生は長くて、「自分が若かった頃」はあっという間に過ぎ去ります。ロジャーも然りでしょう。
今でも、こぎれいなおじさまですけど・・!!
ロジャーはフレディーと一番仲が良かったんです。フレディーはマッチョな男性が好みだったので、ロジャーとは純粋に仲間として友達として仲良しだったんです。ロジャーの素晴らしいソロ曲も沢山あるので、是非そちらも聞いて下さいね!!
ちょっと泣ける話
フレディーが愛したスイスのモントルーでは沢山の音楽祭が開催されます。
ずっと街に置かれているフレディーの銅像・・。世界を股にかけて飛び回ったフレディーに相応しい場所ですね。
銅像はクイーンのドラムのロジャー・テイラーの自宅の庭にもあります。
ロジャーがインスタグラムでこの写真を公開しています。
(年老いたロジャーの後ろ姿に経年を感じますね・・。ロジャーの心を想うと涙・・)
Instagram ; rogertaylorofficial
comment;
A walk in the garden...saying hello to my old friend📷Sarina Taylor
(庭を散歩・・旧友に挨拶。カメラ:サリーナ・テイラー/妻)
こちらのフレディー像はもともと、クイーンのヒット曲で構成されたミュージカル『We will rock you』のロンドン公演が行われた際、劇場正面に置かれていたものです。ミュージカル終了後にロジャー・テイラーが引き取り、現在はロジャーの家の大きなお庭に設置されています。
こんなに大きな銅像を、自分の庭に引き取るところにロジャーの溢れる愛を感じます。
孤独にずっと怯えていたフレディーに見せてあげたいですね!!
見失いかけていた苦しい自身の人生の中で、気が付いたら本当は沢山の友達に囲まれていたっていうこと、天国のフレディーはもう気付いているかもしれませんね。
愛は気付くもの、っていいますからね!!
Freddy Forever...