みなさんはポルトガルというと何を思い浮かべますか?日本ではまだまだ認知度の低い国なので、ポルトガルってどこにある国?何があるの?疑問に聞かれてしまうことも多いのではないでしょうか。しかし実はポルトガルは、日本ととっても所縁の深いヨーロッパの国の一つなのです!今回の記事では、そんな日本とポルトガルの歴史的な関係についてご紹介していきたいと思います。 日本とポルトガルの歴史①:始まりは16世紀 16世紀、ヨーロッパは大航海時代と呼ばれる時代でした。それ以前のヨーロッパは、周辺地域への地理認識はあったものの、中国や日本などの東アジア地域は、過去に旅をした人々の記録に基づきイメージを膨らませることしかできませんでした。そのため、中世では多くの人々が、アジア地域には不思議な身体的特徴を持つ「人間」や動物が住んでいると考えているほどでした。また、この時代にはまだアメリカ大陸の存在はヨーロッパ諸国には認識されていませんでした。 それらの、ヨーロッパ人にとって「未開」の地を「発見」しようという試みが興隆したのが、この大航海時代です。とくにポルトガルとスペインは当時、航海技術に長け、積極的にアジアやアメリカへ舩を出しました。アジア・アメリカに到着した後、征服活動を開始し、キリスト教化・植民地化などを行いました。 日本とポルトガルの歴史②:日本との出会い このように海の向こう側に向けて出発したポルトガル船の一隻が、記録上によると1541年に豊後国神宮寺浦(現在の大分県)に漂着しました。これが、ヨーロッパ諸国から日本への初めての直接的な上陸であったと言われています。 その後、再びポルトガル船が1543年の種子島を訪れ、その際に鉄砲を日本に伝えました。さらに、1549年にはキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが日本を訪れ、布教活動に従事したという記録が残っています。 日本とポルトガルの歴史③:鎖国とその後 その後、日本は鎖国時代(1639-1854年)に突入します。この時代、日本をオランダや中国などの一部の国を除き、外交を経つ政策をとっていました。200年以上にわたって続いたこの体制を経て、ペリー率いるアメリカ船が下田に来航し、国交を開始するように持ち掛け、それを皮切りに、日本は他の国々とも国交を回復するようになりました。 それに伴い、ポルトガルとも1860年に日葡和親条約及び日葡修好通商条約が結ばれ…
マレーシア航空でクアラルンプールにつくまでのあらすじ今回はクアラルンプールでのトランジットとそこからジャカルタへの続きになるのですがその前に前回までのあらすじを整理することにしましょう。 前回は成田からクアラルンプールまでマレーシア航空の最新鋭のA350に乗ったのですがものの見事にただの睡眠時間になってしまいました。搭乗前はJALグローバルクラブ会員になったことで何かと色々便利になったわけですが今回も威力を発揮することになります。 乗り継ぎに優しい?クアラルンプールの乗り継ぎ事情クアラルンプールではT1に到着した筆者らですがT1はサテライトターミナルとメインターミナルがあり、我々が到着したのはサテライトの方でした。筆者がこれから乗るジャカルタ行きの便はメインターミナルの方にあるのでそこまではスカイトレインでの移動です。 スカイトレインに乗車し終えるといよいよセキュリティかと思えばまだそのような気配はありません。実はここがクアラルンプール国際空港のよくできているところで、セキュリティは各ゲートごとに設置されています。そのため、ゲートがオープンするまではセキュリティを通過できない代わりにその間、ターミナル内でショッピングなどを楽しめるようになっています。 なお、ひとたびセキュリティを通過するとそこには店舗は一切ありません。 このような仕組みのおかげでクアラルンプールでの乗り継ぎはT3内であれば1時間でも足りるのではないかと思えるほどです。なお、筆者の乗り継ぎ時間は2時間でしたがかなりゆとりをもてていた印象でした。 なんと雅なラウンジ..まだ時間がたっぷり(とは言っても1時間45分ですが...)あった筆者はマレーシア航空のGolden Loungeでしばらく過ごすことにしました。 JALグローバルクラブの会員になったことでJALに限らずマレーシア航空を含むワンワールドアライアンスの航空会社のラウンジも使えるようになったためです。 到着したのは午前5時台、時間帯が時間帯なだけに筆者が2番乗りになりました。それにしてもこれがなかなか雅なところなんですよ、どう表せばいいのか分からないので下の写真を見て雰囲気を察してください(笑)。 冒頭でも先述したように機内食を食べないで過ごした筆者はさすがに空腹でした。 ジャカルタ行きの接続便でも2時間の短いフライトとは言え、機内食がるのは承知していましたが誘惑…
以前にマレーシアの航空会社の搭乗体験について記事にしたことがありましたが、今回はそのマレーシアに実際に行ってみることにしました!(なお、マレーシア航空について気になるという方はこちら(成田→クアラルンプール)とこちら(クアラルンプール→ジャカルタ)を併せてごらんください) 本題に戻りますがまず最初に訪れたのは首都のクアラルンプールで、そこにはかつて中央駅として機能していたとても美しい駅がありました。最初見たときはてっきりモスクではないかと思ってしまったその駅とはいったい何者なのでしょう? ムーア様式を取り入れた白亜のクアラルンプール駅 クアラルンプール駅が中央駅でなくなってしまった理由については後ほど解説することとして、まずはこの駅の見所について紹介していきます。まずは何と言ってもモスクと錯覚してしまうような美しい外観でしょう。 クアラルンプール駅自体は1910年にイギリス統治下に開業した駅ではありますが設計を担当したA.B.ヒューバックは駅に本来ならモスクにあるミナレットやドーム状構造を積極的に取り入れていき、最終的に多くのモスクで採用されてきたムーア様式を取り入れてこのような姿になりました。 これはインドのタージマハルの影響も受けていると言われており、実際にクアラルンプール駅以外でも北部のイポー駅もまたタージマハルのような外観から人気を集めています。 当時は現在のクアラルンプール駅周辺に中心街(今ではオールドタウンと呼ばれている)が形成されており、今ムルデカ(独立)広場となっている旧総督府もほど近いところにあります。今は中心部がうつったので利用者もまばらになっていますが駅舎の美しさから観光名所のひとつになっています。 中央駅になれなかった事情 実際のところ2001年までは中央駅として機能していましたが同年4月にクアラルンプール・セントラル駅(以後KLセントラルとする)が開業するとその役目を終えることになりました。日本で例えるなら鹿児島駅と鹿児島中央駅(旧西鹿児島駅)の関係が近いかも知れませんね。 クアラルンプール駅は3面4線の構造で、中央駅にしては線路が少ない印象です。市内交通については川の反対側のPasar seni(パサールスニ)まで連絡橋はつながっていますがあまり便利とは言いにくいでしょう。その状態で路線網を拡大しようとするとこれはさすがに難しいです。 …
唐突ですが皆さんイランについてどのようなイメージを持っていますか? ニュース越しに見るイランは「核合意」「経済制裁」「アメリカなどとの激しい対立」などといったキーワードがよく並びますよね。ところが同じ質問を旅通にしてみると全く異なる返事が返ってきます。それもポジティブな内容で。 一体イランとは何者なのでしょうか(笑)。実は筆者も以前に訪れたことがあるので政治抜きでイランがどんな国だったかシェアしたいと思います。 ひとつネタバレしますと日本人にはいいことが多分たくさんあります(笑)。 イランは実は観光大国? イスファハーンの青がまぶしいイマームモスクをはじめ、イランには国土の広さだけ名所があります。 筆者はテヘランからイスファハーンまでのいわばゴールデンルートの範囲でしたがその途中にイスラム教シーア派(厳密にはその主流である12イマーム派)の聖地であるコム(Qom)や昔ながらの町並みの美しいバラの名産地カーシャーンなど、名所は目白押しです。 また、イランの国土は多様性に満ちており、南はペルシャ湾沿いの砂漠から首都テヘランの背に雪をかぶったアルボルズ山脈があり、それをさらに超えて北上すると緑豊かなカスピ海沿岸地域に入ります。モスクや史跡はもちろん、自然もまた表情豊かなだけに見所に溢れています。 余談ですがシーラーズのペルセポリスに行けなかったのが未練です(笑)。 どうにかしてほしいテヘランのワールドクラスの渋滞(笑) ワールドクラスとは言っても渋滞が世界一のジャカルタに比べればまだマシな方なのでしょう。 しかし、テヘランの人口は東京の半分以下にも関わらず(ジャカルタほどでないにしても)東京を優に超える慢性的な渋滞地獄というのは勘弁してほしいものです。 テヘランの渋滞のこわいところはいつどこで起きるのかが、読みにくいことです。ある日は歩行者にも抜かされるほど渋滞していたところが、翌日の同じ時間帯に通ると何事もなかったかのようにスムーズに走れたなんてことがあるからです。こういうこともあっていつ出発するのかを考えるだけで頭痛のタネです(笑)。 ごはんがとにかく美味しい! 旅しているときにどんなに美しいものをみてもごはんがまずければ地獄です。しかしご安心ください、イランのごはんは美味しいです。(あと紅茶も美味しいです) イランのド定番ごはんの中にクビデキャバーブというものがあります。 キャバーブは皆さんもお馴…