昔に比べて今は、多くの人が自分の好きなことを仕事にできる時代になり、さらにはブロガーやyoutuber、そして去年から登場したDappsゲーム(ブロックチェーンゲーム)など、今までは考えられなかった「趣味」のようなものまででも、お金を稼げるようになりました。これからAIに労働を奪われていくと言われる中、市場価値がどんどん個人の趣味レベルへとシフトしているという時代の流れは、今後ますます加速していきます。 しかし、今までは"好きなことを仕事にする"ということに対してネガティブな意見も多かったはずです。 「仕事にするなら2番目に好きな趣味にしろ」 「好きだったものを仕事にすると嫌いになる」 「好きなことを仕事にできる人は極わずかだ」 確かにごもっともな意見ではあります。 しかし、昔に比べて比較的に、趣味でお金を稼ぐ人が増えてきている以上、そしてますます趣味の市場が盛んになってきているこんな時代だからこそ、好きなことを仕事に"できる人"と"できない人"の違いというものに、今こそ目を向ける時ではないでしょうか。 〜「消費的趣味」と「生産的趣味」〜 趣味には大きく分けて2つあると考えています。それらを仮にここでは「消費的趣味」と「生産的趣味」と名付けておきます。 文字通り、消費をして楽しむ趣味が「消費的趣味」。 生産的な活動をして楽しむのが「生産的趣味」です。 このように、趣味を2つの視点から見てみると、その趣味を仕事にしても良いか考える上での1つの指標となります。 例えば、A君はゲームが好きだったとします。A君は会社から帰ったら、すぐにPS4の電源を入れて、ゲームをプレイして楽しみます。夕食やお風呂の時以外、就寝前までずっとプレイします。これは間違えなく消費的趣味です。 しかし、そんなA君がゲーム製作会社に入りたいとなると、話は変わってきます。 上記であげた例では「ゲームが趣味」と言えますが、あくまでも「ゲームをプレイする」ということだけが趣味です。ゲームを買って、1人でプレイする。そこには生産性は一切ありません。 そんなA君が、ゲーム会社に入って、ゲームのアイデアを考えたり、プログラミングを組んでシステムを作ったりというのは、同じ「ゲーム」というカテゴリにしても、それはA君が今までやってきた消費的趣味の"範囲外"ものです。 ゲームを作ることが少なくとも趣味ではかったA君がゲーム製作会社に入り、そしてそれ…
情報が価値を持つときは、決まって"誰にも知られていない"ときです。それは逆を言えば、知られてしまった瞬間に価値を失い始めます。 今までは情報というのは、書籍やテレビ、ラジオなどの媒体によって発信されてきました。しかし、今やブログやSNSなどのソーシャルメディアプラットフォームが当たり前のように利用される現代は、情報が瞬時に更新されていく時代です。つまり今僕たちは、1つ1つの情報の価値が物凄い早さで失われ続け、また新たに情報の価値が生み出され続ける時代に生きています。 そんな中、いかにして価値のある「生きた情報」に触れ続けられるか、そんな立ち回り方が、情報が目まぐるしく変化していく現代では必須になっています。 ~死んでいる情報と、生きている情報~ 更新されなくなった情報というのは、その時点で時間が止まっているということ、言い換えるならばそこで死んでしまっているも同然です。 これまでの書籍やテレビなどの媒体だと、一度発信されてしまえばその情報はその時点でしばらく変化はありません。 例えばAさんが書籍で誤った情報を発信したり、あとで意見や考え方が変わってしまっても、それを更新して再度読者に届けるにはそれ相応の手数や時間が必要です。しかしブログというメディアプラットフォームを使えば、瞬時にその情報を更新を知らせ、読者がブログのRSSに登録しておけば素早くその情報をキャッチすることができます。 他にも、バラエティ番組やニュース番組で誤った情報が流されている時、SNSではそれをリアルタイムで間違いを指摘するといった例がこれまで多く見られています。 こういったSNSやブログなどといったソーシャルメディアプラットフォームは、情報の更新頻度がはるかに高いです。そのプラットフォームに身を置いた情報配信者は、すぐさまに情報やコンテンツをアップデートし続けることで、「生きた情報」を配信でき、さらにそのプラットフォームに参加している視聴者や読者は、常にそのアップデートに触れ続けられます。 ~情報をデザインする~ ここで言うデザインとは、自ら発信する情報をデザインすると言うことではなく、こちらへの情報の入り方をデザインすると言うことです。 時間は有限です。一般的に1日の3/2くらいは睡眠と仕事で奪われていて、それ以外にも趣味や料理、友人との交流にも時間を割くでしょう。残りの時間で入ってくる情報はすごく限られています…
知らないということは、本当に怖いと思うわけであります。なぜなら、誰かの言葉を、そして何が本当に正しいのかを"信じる"ことしかできないのですから。そう考えると、何も知らない状態でこの世に生まれ僕たち人間は、どこまでいっても最初から信じ続けることしかできないのではないでしょうか。 そんな素朴な疑問から、この世にはほとんど"真実"などなく、"信じるという行為"がそこにあるだけなのでは、という仮説に至りました。 この仮説は、教育というカテゴリで視野を広げるのに、非常に役にたつのではないかと思い、今回「教育」カテゴリで記事にしてみました。 〜【思考実験】岩をよじ登る子供〜 子供を育てるにしろ新入社員を教育するにしろ、そこに「教える」という行為は欠かせません。 岩をよじ登る子供には、「それは危ない」と。 ミスに気付かない新人に、「これはダメだ」と。 「知らない」ということは、すなわちまだ過去にそれが起きていないということです。 例えば、岩をよじ登って、落ちて怪我をした瞬間から、それは「知る」ということだと思います。言ってしまえばこれが「真実」なわけです。これがまだ岩をよじ登っている最中に「それは危ない」と注意された時はどうでしょう。「これは危ないことだ」ということを、信じることしかできないのです。 では逆に、知った上で岩を登るのはどうでしょう。別の友達が岩から落ちた場面を目撃していて、岩を登ると怪我をするという「真実」を知っている状態です。それでも岩を登ろうとするのは、「今回は怪我をしない」「自分は怪我をしない」という「空想」を信じているパターンです。なぜならここで言う「怪我をする」という真実は、あくまで「"友達"が岩から落ちた」という真実でしかないからです。 これはいってしまえば、「真実」とは"歴史"の中の一点の出来事でしかないということです。そして未来では「真実」の力は極端に弱まります。真実はあたかも1つの指標でしかなく、人は思い描く「空想」の中でも理想のパターンを「信じる」ことができます。それに向かって汗をかき涙を流すのです。 教育とは、過去に起きた「真実」が、あなたの未来にも起こりますよと、空想のパターンを1つ増やしてあげる作業です。あくまで「真実」を教えるだけで、教育者側の知識や価値観を押し付けるものではありません。 〜教育とは、暴力的だ〜 生まれたばかりの赤ちゃんには、瞬時に、大量の…
現代社会は、たくさんの便利なものが溢れています。 日常生活の”いいね”を共有できます。 民泊を手軽に利用することもできます。 家で一言、「アレクサ、音楽かけて」と言えば、好きな音楽をかけてくれるようにもなっています。 でも、それだけ便利で人と簡単に繋がれる社会になっているのに、なぜか”生きづらさ”を感じてしまいます。 便利になり過ぎたからでしょうか。 既読無視を恐れないといけなくなったからでしょうか。 もちろんそうした、テクノロジーの発展によって生じた弊害で、”生きづらさ”を感じていることもあると思います。 でも、”生きづらさ”は、そうしたモノやテクノロジー以外のところに根本の原因があると思っています。 それは、”弱さを受け入れられない弱さ”にあるのではないでしょうか。 *** そもそも弱さとは何か。少しだけ考えてみましょう。 goo辞書にはこのように記述されていました。 ”力や技が劣っていること” この捉え方であれば、弱さを生み出しているのは、その人自身であると解釈できます。 でも、弱さはその人自身が生み出したものではなく、社会が生み出したものだと思っています。 例えば、引きこもり。 学校では、強制的にクラスを分けられ、しかもその中で円滑な人間関係を作ることが要求されます。 人間関係を作ることが得意な人もいるでしょうし、得意と言えなくてもある程度人間関係を作れる人が大半です。 でも、そういった人たちと対照的に、人間関係を作ることが苦手な人もいます。その結果、学校に行くのが億劫になり、引きこもりという社会的弱者とされてしまう。 果たして、この引きこもりは弱いのでしょうか。 僕は、人間関係を作るのが苦手だという理由だけで、社会的弱者にしてしまう社会の方が弱いと感じてしまいます。 *** 弱さは、絶対的なものではありません。 他の人と比べた時に、苦手であるという個性にしか過ぎません。 その個性が”弱さ”というフレーミングをされて、弱さが生まれます。 時間をきちんと守れないこと、円滑なコミュニケーションを取れないこと、集中すると周りが見えなくなること、使ったものを元の場所に戻せないこと、お酒をやめられないこと、飽き性なこと。 こういったその人自身の持つ特性を、”弱さ”と一括りにしてしまう社会が弱いと感じてしまいます。 にも関わらず、社会が作り出した弱さを、個人に押し付けています。 この構造が、生きづらさを生んで…
我慢に我慢を重ね、傷付き過ぎて来たから、すぐキレる親 自分のコミュニケーション能力が低いのは十二分に分かっているから、そこに家族がズカズカと本当の事を言って来たら、今まで長年会社で我慢して来た分、キレてしまうという事なのですー。 父親は、ご近所の変わっている方と深く関わってしまい、近所で怒鳴り合い合戦を繰り広げてしまったり、母親もその人に急にクラクションを大きく鳴らすなど、近所で目立つ行動を取ってしまっていました。それにより私が、両親が悪くならないための時系列での状況整理の書類を作成し、警察に提出したりなどして両親を守ってきました。 この状況を上手くまわすのには、コツが要るー。 それが分かってしまっている時点で、もう二人の介護を同時にこなしているのです。 毎日毎日、親の介護から逃げられないとどうなるか でも、自分がそれに気付いていなかったので、自分の心に負担をかけ過ぎてしまいました。 「どうして、こんなに私ばかり、大変な役をやらなければならないのだろう?パートナーは、仕事だけで、いいな。 私は、仕事にすら行かせて貰える環境にないのにー。 私がやらなければならない事は全て、無償の役目ばかり。私はどんなに勉強して大学を出ても、求められるのは所詮、発展途上国の家事労働を全てやらされる女の子と同じだな。 どこに働きに出る時間が捻出出来るのだろう?結婚なんて、ただの愛情の搾取だな。体よく騙されたって訳か ー 私も若くて愛とか信じて、馬鹿だったな」 そんな事ばかり考えながら、日々台所に立っていたので、台所に立つとその考えが頭から離れなくなり、台所に立っただけで泣いてしまう現象が続きました。悔しくて、仕方がなかった。 それを同時にこなしていたら、人生で初めて鬱になってしまいました。 台所に立つと、結婚して18年間の、女性として生きる全ての悔しさを思い出して、泣いて過呼吸になったり、泣いて興奮してしまうので、近寄れなくなりました。 パートナーの事は「ジャックと豆の木」に出てくる、その家の鬼の主人のように見えていました。 台所に立つとパニックになるので、一時は離れた場所で過ごしました。 両親2人と、パートナーに二人の子供、全員が私にぶら下がっているから、家から一生出られないんだという妄想が自分に取り付いていました。私には妄想でも何でもなかった、ただ毎日続く辛い現実なだけ。 夜中に寝られなくて、裸足で外に駆け出したい衝…
自閉症スペクトラム障害はAutism Spectrum DisorderでASDと略されます。 「症」と「障害」が一つの単語に出てきますので、日本語に敏感な人は違和感を感じるでしょう。 自閉スペクトラム障害が正しい日本語と思いますが、日本精神神経学会が出しているDSM-5病名・用語翻訳ガイドラインではどちらでもいいことになっています。本文では著者の好みで自閉症スペクトラム障害を用います。 自閉症スペクトラム障害という名前ができたのは、比較的新しいものです。それまでは症状に応じて、自閉症、アスペルガー症候群、特定不能の広汎性発達障害に分類していましたが、それを一つの自閉症スペクトラム障害にまとめたというアメリカ精神科学会の決定に日本の学会が決めたものです。 自閉症スペクトラム障害は病気と見なすよりは人の特性と判断することが大勢を占めていますが、世の中では認知されているとはいえません。 今回は自閉症スペクトラム障害について原因、診断法、治療法を、近年の研究成果を交えて自閉症スペクトラム障害が病気ではなく、特性であることを説明したいと思います。 自閉症スペクトラム障害とは 自閉症スペクトラム障害の疫学 近年は100人に1人という報告があります。診断される人の数は増加しているといわれています。実際には診断方法の進歩により今まで見逃されていた子どもたちが自閉症スペクトラム障害と診断されていることから、見かけ上増えているように見えるのかもしれません。 男女比は男性の発病率が女性の4倍であるといわれています。男性が女性よりも多いと言うことは、比率は多少違いますが、全世界共通です。 性差が本当にあるかどうかに関しては、診断の問題という仮説があります。知的障害が女性に多く見られていることから、女性では知的障害が見られない症例では社会的困難であることが目立たないことが原因となって、自閉症スペクトラム障害との診断がされていないという説です。 自閉症スペクトラム障害の診断 日本でも取り入れられている2013 年に米国精神医学会が発表した精神障害診断・統計マニュアル第 5 版(DSM-5)によると 発達早期より認める①社会的コミュニケーションおよび対人相互反応における持続的な欠陥,および②行動・興味・活動の限定された反復的な様式があり,①,②の結果,臨床的に意味のある支障を引き起こしている場合に診断されます。 ここ…