知らないということは、本当に怖いと思うわけであります。なぜなら、誰かの言葉を、そして何が本当に正しいのかを"信じる"ことしかできないのですから。そう考えると、何も知らない状態でこの世に生まれ僕たち人間は、どこまでいっても最初から信じ続けることしかできないのではないでしょうか。
そんな素朴な疑問から、この世にはほとんど"真実"などなく、"信じるという行為"がそこにあるだけなのでは、という仮説に至りました。
この仮説は、教育というカテゴリで視野を広げるのに、非常に役にたつのではないかと思い、今回「教育」カテゴリで記事にしてみました。
子供を育てるにしろ新入社員を教育するにしろ、そこに「教える」という行為は欠かせません。
岩をよじ登る子供には、「それは危ない」と。
ミスに気付かない新人に、「これはダメだ」と。
「知らない」ということは、すなわちまだ過去にそれが起きていないということです。
例えば、岩をよじ登って、落ちて怪我をした瞬間から、それは「知る」ということだと思います。言ってしまえばこれが「真実」なわけです。これがまだ岩をよじ登っている最中に「それは危ない」と注意された時はどうでしょう。「これは危ないことだ」ということを、信じることしかできないのです。
では逆に、知った上で岩を登るのはどうでしょう。別の友達が岩から落ちた場面を目撃していて、岩を登ると怪我をするという「真実」を知っている状態です。それでも岩を登ろうとするのは、「今回は怪我をしない」「自分は怪我をしない」という「空想」を信じているパターンです。なぜならここで言う「怪我をする」という真実は、あくまで「"友達"が岩から落ちた」という真実でしかないからです。
これはいってしまえば、「真実」とは"歴史"の中の一点の出来事でしかないということです。そして未来では「真実」の力は極端に弱まります。真実はあたかも1つの指標でしかなく、人は思い描く「空想」の中でも理想のパターンを「信じる」ことができます。それに向かって汗をかき涙を流すのです。
教育とは、過去に起きた「真実」が、あなたの未来にも起こりますよと、空想のパターンを1つ増やしてあげる作業です。あくまで「真実」を教えるだけで、教育者側の知識や価値観を押し付けるものではありません。
〜教育とは、暴力的だ〜
生まれたばかりの赤ちゃんには、瞬時に、大量の情報が流れ込んできます。光、色、音、温度、空気など。どれも知らないことですが是が非でもそれを受け止めなければいけません。この「知る」という行為は少し暴力的だと感じます。否定することができないのですから。
それは今後、成長していく中でも世の中には自分の知らない情報は常にあって、それを誰かに教えてもらうにも、暴力的に知識に組み込まれます。
今までの学校での、"全員に同じ解答用紙"が配られたり、意に反した子には叱ったり、体罰を振るうような教育は少なくとも、多くの子供たちを"1つの正解"に導くという作業です。この教育方法が原因で、日本は「出る杭は打たれる」国だと揶揄され、世界的に見れば新たなイノベーションが起こりづらい国だと言われています。
社会に触れていれば触れているほど、世の中には正解があることの方が少ないと分かってきます。そんな中で生きていくには"何を信じるのか"がとても大切なのではないでしょうか。善悪の判断や、何が正しいことなのか、何をどうやって信じるのか、などの能力がまだ備わっていない子供に対して、これが正しいのだと一方的に価値観や正解を押し付ける教育は、暴力的だと言わざるおえないでしょう。
〜真実にとらわれない教育〜
子供に紙とペンを渡せば、気の向くまま自由に「空想」の世界を書きます。しかし、「真実」(過去)を積み重ねてきた大人といえば、もう紙の上には「真実」しか描けないでしょう。
子供に車のおもちゃを渡せば、何故かその車は空を飛びます。しかし大人が触れば、走らせることしかできないかと思います。
もちろん、世の中を生きていくのに、空想だけを広げる教育だけでは良い教育とは言えませんが、その人その人が持っている独創性を、過去でしかない真実や価値観を押し付けるこによって潰してしまうのは疑問が残ります。教育とは常に、その人の独創性を潰さずに、いかにして空想を広げさせるかが、豊かな国を作り上げるのに必要なことではないかと思います。