こんにちは、今回は最近人種差別問題から発展して論争になっている二次元の中でのリアリティについて考えていきます。
以前から特にアメリカでは映画やドラマなど 起用する俳優と役の人種は一致しているべきだ!さもなくば人種差別、または文化の盗用になる!などとブロードウェイでも度々論争になっていましたが、今回のブラックライブズマターのプロテストへの発展でこのような部分も前にも増して話題になっています。
最近ではTwitterの方で話題になった、“セーラームーンは日本のアニメなんだから、日本人の顔でなければおかしい!”といってクアラルンプール在住のイラストレーターが書いた“日本人的顔”のセーラームーンのイラストが話題になりました。
それに対して日本人との論争の中で面白いと思ったのは、イラストやアニメなど二次元として作品を作る・または見る時点でそこにはっきりとした人種を意識したことはなかった、という日本人が多数。
他の国からは“日本人は白人への憧れが強いからキャラクターも白人ぽく書いている!”との声が。
私も自分で見ていて思いましたが、確かにセーラームーンにしろ他のキャラクターにしろそれに対して強く人種を意識したことはないなあと思いもしかしてこの意識の違い、これもミーハー大国日本ならではなのでは。。。?と気づき始めた気がしました。
でもセーラームーンが白人??いやいや、“セーラー服”着てるんだよ?日本人でしょ。笑
そこまで人種って気にしなきゃいけないんですかねえ・・・
その②、役であっても人種・ジェンダーは演者と一致しているべき???
一度火がついてしまったら止まらない。そしてハリウッドまで。現在制作中だったアニメや劇中で有色人種のキャラクターを白人が声を当てることにファンや関係者から批判が殺到、または役者が適切でないとの判断で降板する自体が相次いでいます。
このようなムーブメントは止まることを知らず、先日はまたオスカー女優のハル・ベリーが新作で演じる予定だったトランスジェンダー役を降板。Twitterで批判が殺到していたのを受け表明したそう。それにしてもそんなの、もう何にも演じれなくなっちゃうじゃないですか・・・・
私はこのリスペクトのためにリアリティ(人種、セクシャリティ、立場など)と表現の世界が一致しているべき!というムーブメントに、密かに危険を感じてきています。。。
その③、極論:殺人を犯した事のある人が殺人鬼役をするべきって事???
・・・っていうことになってきちゃいますよね!当然。()
私も自分が表現の世界にいて思っている事があるのですが、演者や作者はその世界観を作る際、“2次元の中のリアリティ”を追求すべきなんじゃないかな・・・
つまり表現という効果を作る際、リアリティに拘りすぎて“現実”を見たいならば、もうその表現なんてそもそも始めから要らない訳です。そんなにリアリティにこだわるならもう作品なんて見なければいい。キリが無いですもん。
しかし、何かにインスパイアされたりもしくは伝記などで“再現”する以上、そこに絶対リスペクトというのは必要で、表現というのは”効果”であって嘘になっては絶対にいけないでしょう。事実にない事を述べたり、参考にした人や情報の意図を無視する事の方が問題なのでは。それを踏み外すと文化の盗用、または差別表現に繋がるのかなと思います。
その④、“リアルに近いフェイク”であるからこそ引き立つのが表現
筆者の個人的な意見を言いますと、昔ディズニーのアニメのライオンキングを見た時、最後悪役のムファサが崖に突き落とされた後手下のハイエナ達にやられるシーンがありますが、子供ながらにすごい、と思ったのが敢えて影になっている所。
そのままムファサが襲われる場面を描いても理解はできますが、敢えて影にすることによって見ている人の想像を掻き立て、悪役の罪が裁かれる表現を残忍にしているのがよく分かります。
ディズニーは子供向けなのであまりグロテスクな表現は勿論しませんが、”よく見えない”または”敢えて表現し過ぎない” という状態が返って恐怖や想像を引き立てる、という技巧の素晴らしさは今日映画でも舞台でも多く表現方法として使われているのではと思います。
そしてこのなんでもリアルでないとリスペクトが無い!という少し過激なムーブメントに関しては、作品である以上、“それも表現方法の一部”としか言えないのでは・・・と個人的には思っています。
なぜならそれこそが自分たちの人種や社会的立場、アイデンティティを狭め、差別していることに他ならないのでは。演者が“持っていないもの”に対して役を追われる表現の世界に、果たして本当の未来はあるでしょうか。