おっせかいが防いだある事件
何をヘラヘラ笑っているんだ。何が楽しいんだ。生きるってなんなんだ。もう、こんな世界は終わりにしたい。でも、自分一人が消えるのはなんか違う。誰でもいいから一緒に。
青年は、その定食屋に初めて入った。
誰かいるか、自分より弱いヤツ。食べ始めてしばらくすると、突然、前の席で一人で食べていたちょっと派手なオバサンが、青年に勢いよく話しかけてきた。
「若いんだから、もっとちゃんと食べなきゃだめよぉ。」
なんだ、このオバハン。
「あれ。やっぱり若い人はこんな油モンばっかり食べるんだよね。野菜もちゃんと食べなきゃ。これ、この煮物おいしいからあげる。ちゃんと食べなさいよ。若者!」
若い女性が店を出ていった。青年も後を追うように店を出た。外は雨が降っていた。少し空を見上げていると、あのオバハンも店の外に出てきた。
「あら、雨。あなた傘持ってないのね。じゃ、これあげるから。はい。あ、いいのいいの。うち近いからぱーっと走ればすぐだから。ビニール傘だから気にしなくていいのよ。じゃね。野菜もちゃんと食べるのよ」
気がつけば、手の中に傘があった。若い女性もオバハンも、もうどこにも見えなかった。
「なんだ、あのオバハン。」傘を見つめた青年は少し笑った。
これは、20年程前に観た名取裕子主役の人気ドラマシリーズのワンシーンです(脚色していますが)。
市井の人たちの日常を切り取った脚本がなんとなく好きだったシリーズですが、特にこの回は今も事あるごとに思い出されます。
青年はこの後、犯罪を犯すことなく去っていきます。何でもないおばさんのおせっかいが、一つの犯罪を防いだというお話です。しかも、功労者たる本人(名取裕子)は、そんな役目を果たしたとは思っていません。これが、日常のコミュニケーションの意義ではないかと今でも思います。
相手を知ろうとする気持ちと手間
哲学者内田樹氏が、自身の著書「街場の共同体論」(潮出版社)の中で、コミュニケーションとは何かを問いかけています。フランスで暮らしていた内田氏が、ある日スーパーでレジの女性に話しかけられます。しかし、フランス語に慣れていなかったせいか上手く聞き取れず、何度か聞き返します。そのうち女性は、もういいと手を振り拒絶しますが、諦めたくない内田氏はカウンター越しに身を乗り出して、もう一度ゆっくり話してほしいとお願いします。すると今度はちゃんと話の内容が理解でき、最後はお互いに笑顔で別れます。
こんなふうに、誰かにわざわざ話すほどのことでもなく、せいぜいいつも聴いているラジオのDJにメールするくらいの、日常の何でもない一コマですが、心がふと温かくなる瞬間は誰にでもあるはず。内田氏は、これこそが必要とされるコミュニケーション能力ではないかと問いかけます。自分のことを上手くアピールするだけでなく、相手を理解しようとする気持ちと手間をかけること。それはやがて、相手を好きになることにつながっていくのです。
経団連の「2017年度 新卒採用に関するアンケート調査」では、求める能力として82%の企業がコミュニケーション能力を挙げています。この傾向はもう10年くらい続いているようです。コミュニケーション能力検定というものもあります。
ここで求められるコミュニケーション能力とは、分かりやすく伝えることや人の話を聴くことが中心になり、さらにうまくその場を収め、まとめる力があれば文句はないというところ。不器用な人のイメージはありません。でも、コミュニケーションはスマートでなくてもいいのです。
あれから時は過ぎ、どのような場面でも今の世の中の尺度よりは少しおせっかいでありたいと思う、
ほんもののおばさんにいつの間にかなっていました。
「街場の共同体論」(潮出版社)内田樹著
https://www.usio.co.jp/html/books/shosai.php?book_cd=3850