一人部屋なのに安価な部屋代
横浜の旧大口病院で、元看護師による入院患者殺人事件が発生。患者(88歳)の点滴に殺菌消毒剤を混入し、中毒死させた。容疑者の元看護師は「ほかにも20人ぐらいにやった」と供述している。ニュースで事件の概要を見知った時、「ああ、あんな病院でのことか」とすぐに理解できた。
あんな病院とは、正式には療養病棟という。定義としては、「急性期治療が終了後、病状は比較的安定しているが引き続き、医療的なケアや病院での療養が必要な患者が利用する病床」となる。
父が救急搬送で入院した病院がまさに“あんな病院”だった。
容体を急激に悪化させた疾患については早々に判明し、治療が施され、危機的な状況は脱した。にもかかわらず、父の状態は以前よりも悪くなっているように見えた。起き上がることは以前から難しくなってきたが、口からほとんど食べることができないようになり、話すことはできず、もちろん意思の疎通もできなくなっていた。寝ているのか起きているのか分からなくなっていた。
ある日、父の病室にまで廊下を歩く中、なぜか全ての病室のドアが開いており、室内が丸見えだった。個室のベッドに横たわる父と同じくらいの高齢者全員に2、3本のチューブがついていた。起きている様子は誰にも見られなかった。
疑問に思っているところに、病院から週明けに病室が代わると告げられた。部屋代は個室だというのにとても安かったが、移動先のフロアにはナースステーションがないと先に話を聞いた母が悲壮な顔で訴えた。さっきの患者たちの様子が思い浮かぶ。
そういうことか。この病院はそういう病院だったのか。
世の中に必要とされる病院
もちろん、最初から全てを納得した上で入院させるご家族もいるだろう。家での介護が難しくなり、かといって介護施設にはいつ入れるかどうか分からない。容易に入所できる高額な施設は経済的に難しいとなれば、有難い病院である。また病院側にとっても、それほどの人件費を使わずに、確実な収入を得ることができる。
世の中に必要とされている病院なのだと思う。
その後父を強引に退院させ、他の病院に転院。結果、少しなら歩くことができるようになり、自分で食事を摂るようになった。特別に新たな治療が行われたわけではない。毎日口腔ケアが施され、身体は清潔に保たれた。6人部屋だったが大きな窓のある明るい部屋になり、看護師は誰もがはつらつと仕事をこなしていた。そこでは、大きく息を吸って深呼吸をしても何の問題もないように思えた。
想像以上の回復が見られたのは、たまたま父の病状が深刻なものではなかっただけのことかもしれない。誰もがそうなるとは思えない。
しかし良いことばかりではなかった。回復した父は早々に退院を迫られ、私たち家族はさらなる困惑を味わうことになる。その後の施設探しに奔走した。
変な言い方だが、今はなかなか死ぬことはできない。
かと言って、介護が不要になるくらいまで元に戻れるわけではない。介護をする者の精神的な負担は、簡単な言葉で表現しきれるものではなく、介護保険があるとはいえ、指の間から水が漏れるように、保険を頼りにできない経費も意外に多く、金銭的な負担もばかにならない。
先のような療養病棟は家族にとって、最後の砦となる。
みんながハッピーになる方策とは
もちろん、事件を起こした元看護師をかばう気はない。動機として彼女は「自分が担当している日に亡くなると、家族に説明するのが面倒だから」と話しているが、そこまで冷めてしまうまでには、渦を巻くようきな気持ちの揺らぎが繰り返させられたのではないどろうか。その途中で、病院を辞めればよかったのだ。看護師なら転職先に困ることはないだろうし。でも、彼女が辞めれば、現場は困る。
誰かが、誰かがそこに居てお世話をしてくれないと困るのだから。
患者、家族、医療者。かつて近江商人が掲げた「三方良し」のような状態は望めないものだろうか。
だが、そこに至るまでには何を持って「良し」とするかという、根源的な問題も浮上してくる。実際に介護する側の立場となり、現在の医療制度も介護制度もよくできているという実感がある。現場の役人たちは、長い間、考えに考えて少しずつ修正しながら積み上げてきたのだと思う。
ただ、漏れのないシステムはない。