こんにちは!皆さま如何お過ごしでしょうか?
最近発達障害が日本でも知られるようになってきた中、アメリカや他国での支援の仕組みや取り組みの違いも明らかになってきました。今回は私がニューヨーク周辺で見たり話し合ったアメリカと日本の発達障害の捉え方や教育、支援の違いなどについてお話していこうと思います。
今知られる中で代表的なADHD, ASD(アスペルガー症候群), 主な違いは?
数十年前まで”少し変わった子”、”躾のなっていない子”とされていた発達障害ですが、最近欧米各国での研究もまた進み日本でも多くの場所で診断ができる病院、心療内科が増えました。
ADHD
主に多動性、衝動性が随所に出る。旧ADD。
じっとしていられない、お喋りが止まらない、思ったことがそのまま口に出てしまう。
喜怒哀楽、情緒の変動が激しく、抑えられない。怪我をしやすく、痣をよく作るが気づかない。
過集中になりやすく夢中になるとオーバーワークしやすい。
ボス的な態度を取りたがり集団行動が苦手、など。
女性に多いと言われている。コミュニケーションは苦手では無いが、上記の性質などで関わりに偏りがあるため、長続きしにくい。
ASD(アスペルガー症候群)
重度の知的障害、言語障害を含まない自閉症と言われている。
言葉は話せるが社会性、コミュニケーションによって人と関係を気づくのが難しい障害。自閉症と同じく、男性に多いと言われている。性質は自閉症に似ていて、ASDの場合、大抵ADHDや愛着障害、境界線パーソナリティ症候群など、二次障害を併発しやすい。近年男性ホルモンが何らかの形で過多になり起きているのではと言われている。
胎児の段階でホルモンの影響による薬指の長さなどに関係がある事が証明され、母体にいる時から障害を発見出来る可能性が出てきている。衝動性、攻撃性、鸚鵡返し、奇異な動き、運動障害、テレビのフレーズをテープレコーダーのように覚えて何度も言う、など社会的な面で奇異な部分が多い。
学校内、職場での共同作業の難しさ
最近”インクルーシブな教育”、なんて日本でも言われるようになってきましたが、実際はどうなのでしょう。
日本でも障害者支援用の施設や職場、ハローワークなどが増えつつありますが、実際のところは難しいようです。理由は、日本の学校教育の画一的な制度、異質なものに対する排除的な文化、それが何なのかを教育しないやり方にあります。
個人的な話をすると、私は発達障害ではなかったですが学習障害(文字が読めない、算数障害など)の中の一つのディスレクシアでした。
黒板の文字が光って全部くっついて見える、教科書の朗読で差されると同じ行から次へ行けない(文字がくっついて見える・・・)など、日本での学校生活は毎日冷や汗で苦痛だったのを今も覚えています・・・。今も文字を打っていて段々読めなくなる時があります。
アメリカ、ニューヨークでの支援と取り組み
こちらに住んでからちらほら聞いて驚くのが、方法の違いを与えて本人が社会で生きていけるよう自立を施している支援です。
具体的に言うと、普通学級に入るとまず、先生とその子の障害について学ぶ授業を設けます。一緒に障害について学習する、と言うスタンスです。
そして学校や職場でも多動性のある子には揺れる椅子、バランスボールでの授業を許可したり、寝そべって黒板に向かっていいなど。これは障害というか、近年のアメリカの企業や職場でもよく見られますが、”いかに効率的に作業を進めるか”を重点に置いているためかもしれません。
個人のやり方に沿って能率を上げる、という考え方を取る組織がアメリカでは今増えてきており、少なくありません。これは障害者雇用にも例外でなく、個人のやり方に任せる、というスタンスが障害ある無しに関係なく社会での自立を促進しているのかもしれません。
他には私のようなディスレクシア、識字障害のある子にパソコン、タブレットでの参加を許可したり、突然衝動性がコントロール出来なくなったら別部屋に移っていいなど、日本でも少しづつ取り組みが増えてきているかと思います。
ASDとの関わり、エラーにより起きてしまうカサンドラ症候群が問題に
近年特にアスペルガー症候群の診断が以前より下るようになり、職場やコミュニティでのコミュニケーションの失敗による崩壊が問題になっています。
昔よりは障害について明らかになってきたのかもしれませんが、問題は大人になってから発覚したケースの人達です。小さい時から特別な養育や療養を受けず、いざ社会に出てから集団で同じようにやろうと言うのはかなり無理があり、本人も悪気もなく問題点も混乱したまま周りを巻き込んでしまうケースが増えているようです。
ここで酷いのは、DV, ストーカー、虐待などにもこれらの障害が関与しているケースが多い事です。
近年、カサンドラ症候群と呼ばれるASDに関わりのある周囲の人がコミュニケーションの行き違いの連続から精神的に疲弊し、会社内や家庭内、学校やコミュニティなど閉鎖的な場で相談もする事が出来ず自分が精神科にかかる状態が増えています。こちらも本当に深刻な問題です。日本でも近年逃げ場のないカサンドラ症候群の被害者の自助組織やシェルターなど増えつつあり、家族ぐるみで避難するような方も増えているそうです。。。
さらに社会的な問題として、家庭内や閉鎖的な環境でのアスペルガー当事者との関わりで鬱、パニック障害などになる親族、関係者が増えていることです。
また、ASDで暴力の衝動性がある場合、大人になってからでは、暴力の衝動を制御できるように学習をさせることは難しいです。
このASDによる暴力は非常に危険な問題であるにも関わらず、ASDで”障害者”扱いになると、その暴力による被害者が訴えても、ASD保持者本人に悪気がないだろうという見られ方をされ、現在の刑法では問題にされず闇に葬れられている事です。女性にとって、付き合っている男性がASDであった場合、衝動が暴力に及ぶと対応ができません。
最近大きく問題になった相模原での障害者施設での大量殺人では被告が「意志の疎通が出来ない人間の生きている意味が分からない」といった発言が過激で問題になりました。被告の言い分は当然正しいとは言えないが、一理あるのではと思ってしまった筆者です。なぜなら私も「意思の疎通ができないASDの人」に被害を受けて死にかけた一人だからです。。。
まだまだトピックにしにくいセンシティブな部分とされていますが、幼少期での早めの見極め、診断、どう対応していくかでその後の社会との関わりが大きく変わってしまう、大変難しい問題です。
違いを認めることは自分たちの安全を守ること
日本でもまだまだ難しいですが、ニューヨークやアメリカの都市部で見られる取り組みで面白いのは、”違い”に対して積極的に勉強や取り入れる姿勢を学ぶところだと思います。
こちらは障害者だけでなく、宗教の違い、人種の違いなど多くの違いについて普段から対応する必要性に溢れています。
そうすると、皆んな自然と”まず人間として守るべき基本的な事”、ルールに対して自然に見出す力が付くようになり、結果それがお互いの生活を守るためなのだという基本的人権の姿勢にたどり着くきっかけになっているような気がします。
相手の違いから自分の立ち位置を学び、それをまた他の人のために役立てる、そういうホリスティックな教育の循環が、日本にももう少し出来てくると、組織やコミュニティに豊かさ、円滑さが増していくかもしれません。