お稽古や勉強、在宅ワーク。自宅で一人、黙々と長時間行うことで、やっと成果が得られる行為はそう珍しくありません。そういった行為に関わったことのある人の中には、こんなセリフに聞い覚えのある人もいるかもしれません。「もっと集中してやらなきゃダメだよ」「1日何時間も勉強しなきゃ、身にならないよ」筆者も、幼少期からある楽器を習っていて、現在は一応、その楽器の技で仕事をもらうことがあります。そして、幼少期から今まで続けてきた間、時には「1日8時間、10時間さらいなさい」と先生に言われることもあり、実際、それくらい練習できるかどうか挑戦して見たことがあります。それでは、「長時間の集中」は可能なのでしょうか?「長時間の集中」ができない人は、大事なことが身に付かない・大成しないものなのでしょうか?結論から書くと、筆者は、1日8~10時間練習し続けることができませんでした。まず第一に、疲れます。当時の筆者は中学3年生。まだまだ若い学生の盛りですが、それでも、1、2時間も練習すれば集中力が落ちていきます。いくら子供で体力があるとはいえ、何時間もぶっ通しで楽器を弾き続けるということは簡単ではありませんでした。第二に、練習すればするほど、思考の泥沼にはまっていきます。「私は今、なんのために練習しているんだろう?」「私がやっていることはこれで正しいんだろうか?」「こんなに下手なら、私は、音楽なんてやるべきじゃないんじゃないか?」というように、どんどん、自己否定に走っていきます。そして、第三の理由は、外部からの刺激が、あまりにも少ないこと。1日8時間も練習すれば、それは1日の3分の1に当たります。睡眠時間が8時間だとして、残りは8時間。三食食べれば3時間、お風呂に入って1時間、──そう考えると、せいぜい残るのは3~4時間程度の自由時間。友達と遊びに出かけたり、家族と買い物に行ったり。そういう時間は、ほとんど残りません。子供として過ごせる短い期間なのに、ひたすら、自室にこもって毎日、勉強、勉強、練習、練習。これがもし、大人が通う会社だとしたらどうでしょう。朝9時に出勤して18時に退勤だとして、それでも(いわゆるブラック企業でなければ)昼休憩や適宜一息入れるタイミングがあるはずですし、全く同じ作業を繰り返すわけではありません。ほかの人とのコミュニケーションも存在しています。そうではない、勉強や練習のような、一人で行う作業を幼い頃から8時間もぶっ通しでやり続けることは、あまり健全には思えません。例えば、ここに、毎日10時間もぶっ通しでパソコンに向かおうとしている大人がいるとします。はじめのうち、作業は捗るかもしれません。でも、そんな生活が続けば必ず身体に不調として表れます。身体の調子が悪くなれば、頭の回転が落ちたり、心が沈んだり……総合的なパフォーマンスは落ちていきます。また、外部からの刺激がない生活は、新しい情報が入ってこないことを意味します。これが芸術家であったなら、人との交流や自然、美術を観ることは、当然、刺激にも休息にもなり、長い目でみれば、それはその人自身の感性に何らかの変化を与えてくれるはずです。ライターであったなら、ネットや書籍による情報だけでなく、自分自身の実体験を増やさなければ、文章にできる事柄はどんどん少なくなっていくはずです。ただ、部屋に閉じこもったり、椅子に座り続けているだけでは、体験できないものが、この世界にはたくさんあるはずです。文字や映像だけによる情報ではなく、実際に見て、聞いて、触れて、その場所に行ってみなければ、わからないことがたくさんあるはずなんです。ですが、筆者の知る芸術界隈では、幼い頃からすでに、そういった体験から離れている人々がたくさんいました。子供だからこそできた遊びもあったでしょう。学生のうちだからこそ、交流できて、新しい友達を作ることもできたはずです。でも、それすらしなかったがために、どんなに技術が素晴らしくても、心のどこかに偏りのある人々が、いまでも、たくさんいます。そして、偏りのあるまま大人になってしまったその人たちに、「それは違うんだよ」と諭してくれる大人は、もう、そんなにいません。確かに、1日に何時間も同じ作業に没頭できる、というのは稀有な才能です。長時間の集中よって飲み、生み出される成果もあるでしょう。ですが、大抵の人はそうではありません。3時間も同じ作業をしていればどんどん集中力は落ちていきますし、それ以降は単なる惰性で時間を稼ぐことになります。それでも一生懸命、なんとか長時間の作業を繰り返して、外部との交流を断ち続けた結果は、吉と出るか凶と出るのか。それは、誰にもわからないのです。そして、そんな日々を毎日繰り返していたら、心か身体、あるいはその両方に、いつしか限界が訪れます。必ずしも、1つの物事に時間を割けばいいというものではない。筆者は、いまでは、そう考えています。