米沢の殉教者
北山原殉教遺跡(写真をクリックすると大きな画像で見られます)
山形県の米沢で53人のキリシタン達が1629年に殉教しています。
時の将軍家光からの幕命に逆らうことが出来ず、米沢藩上杉定勝(さだかつ)によって執行されました。
不思議なことに、この殉教の様子を記したイエズス会のポーロ神父は、殉教を見に集まった人々の態度を褒めています。
「誰も牢屋に入れられなかった。検者(死刑の監督役人)達が殉教者達の家に生き、彼らを殉教地まで率いた。」
とあります。また、殉教地に向う時、先頭に1人の小姓が聖母マリアの旗を掲げ、もう1人の小姓はろうそくを持ち、殉教者達はきちんと並んで歩いていたようです。
堂々とした行進だったようですね。そして奉行は処刑が行われるときに見物人に向かって、
「ここで死ぬものは信仰のために命を捨てる身分の高い人であるから、処刑の時に皆土下座するように」
と命じた伝えられています。甘糟右衛門信綱(あまかすうえもんのぶつな)を初め、殉教者の主だった者が直接定勝に使える高位の武士とその家族、及び小姓(仕えていた少年)達ということからでしょうか。
キリシタン達は信仰を貫き、キリストを証しするために自らすすんで斬首されていきました。
北山原で43人、糟山(現在の南原地区)で7人、新洞ケ台(花沢)で3人が殉教を遂げています。
この中には親と共に処刑された2人の1歳の赤子、5人の3歳の幼子、2人の5歳の子供もいました。
それは雪の降る、1月12日の明け方の頃でした。
甘糟右衛門信綱と上杉家重臣との関係、甘糟景継、志駄義秀、直江兼続
甘糟右衛門信綱よりも世間的には其の父(と言われているが確かではない*)、甘糟景継(かげつぐ)の知名度が高いのではないでしょうか。
NHK大河ドラマ「天地人」の中で、甘糟景継をパパイヤ鈴木が演じています。
ドラマの主人公である直江兼続の幼馴染であり、共に若い時に小姓として上杉景勝に使え、上杉家の興隆を支え、上杉家の重要な重臣となる仲間として描かれています。
江戸時代に作られた軍記物では、主君上杉景勝から冷遇されているのを知った徳川家康が、甘糟景継を2万石で迎え入れようとしましたが、
「景勝殿の怒りは私の責任であり、いかなる罰を受けてもそれはもっともなことである。それに長きこと上杉家に仕えており、今さら二君にまみえることは出来ない」と述べて断りました。それを聞いた家康は「そういう人物だからこそ配下に欲しかった」との逸話があります。
このことからも甘糟景継は武勇に優れ、また忠誠心の高い高潔な武士として知られていたことが分かります。
徳川家との関わりは、慶長11年(1606年)に桜田御門普請の頭取を務め、将軍より時服と銀子を賜ったと記録があります。
1611年に死去しますが、其の死は謎に包まれています。
「甘糟家先祖書」にはゆえあって自害とされており、6千6百石の家禄は取り潰されています。
徳川家に評価されることが上杉景勝の心情にどう映ったのか。
景勝が没した後(1624年)、二人の息子達は、次代藩主、上杉定勝(さだかつ)によって200石で上杉家臣に復帰することを許されたとされていることから、主君の上杉景勝との間に表に出来ない確執があったことが伺われます。
景継の息子達の復帰には、おなじ「天地人」で、直江家配下の武将として信太昌之が演じている志駄義秀(しだよしひで)が大きく関わっていると考えられます。
志駄義秀は10歳程甘糟景継より若い、景継と同じく上杉二十五将の1人です。
まだ上杉家が徳川家に敵対していた時、甘糟景継が白石城を守り、志駄義秀が東禅寺城守り、それを直江兼続が指揮していました。後々には志駄義秀は、景継の息子が切支丹として訴えられた時に様々な形でかばうことがカトリック教会側の報告にあります。
上杉景勝家臣として共に戦場で戦い、甘糟景継とは特別な友情関係があったと考えられます。
上杉景勝が没するときには、志駄義秀は政務奉行(国家老)の1人とまでになっていました。
* 甘糟信綱が景継の息子として確かでないのはない理由として、「侍組禄席掌故」(『上杉文書』)では寛永3年(1626年)11月では景継の子、久五郎吉継(200石)と彦七郎(帯刀)長継(300石)としている。その二年前の「定勝公年譜六」には甘糟右衛門と載っているので、何方かが右衛門に相当するのか、若しくは3人目の右衛門がいたのか不明。また信綱に「継」の字が入っていない。
甘糟右衛門信綱の洗礼と米沢での宣教
北山原殉教地にて
甘糟右衛門信綱は、江戸でルイス・ソテロ神父から洗礼を受けたと言われています。
そのソテロ神父は、1610年から江戸で宣教を初め、1613年には幕府によって捕らえられたが、伊達政宗の計らいで釈放されました。1614年より支倉常長と共に伊達政宗の慶長遣欧使節としてローマへ行きます。
つまり、1611年〜1613年の間に洗礼を受けたのでしょう。景継が自害して間のない頃です。
父景継の自害した事が、信綱の洗礼を受ける切っ掛けに大きな影響を及ぼさなかったとは考えすぎでしょうか?
ソテロ神父により、永遠の命を知り、救いと神に愛に触れ、ルイスという洗礼名を受けた後、米沢においてキリシタンの支柱となります。
二人の息子、太右衛門と市兵衛に洗礼を授け、それぞれミゲル、ヴィセンテと洗礼名を授けました。
また、太右衛門の模範に動かされて、同じ年頃の青年で武士であった西堀式部政貞が1622年に洗礼を受け、パウロという洗礼名を受けました。
甘糟信綱は鉄砲隊に、そして西堀式部政貞は御馬廻り属していたことが「定勝公年譜六」に記されていることから分かります。
「寛永元(1624年)・八 同二十八日 使价(しかい)甘糟右衛門ヲ南部信濃守利直ノ居城奥州森岡二遣サレ鳥銃十挺(ちょう)塩硝(えんしょう)二十貫目ヲ増進シ玉フ」「寛永四(1627年)・一・二四 同日 新秩(しんちつ)五十石充(こくあて)ヲ宛行(あてがわ)レ 御馬廻隊中二召入ラル士(さむらい)二八 西堀式部政貞 ・・・・」
上杉景勝の度量と自由の地であった米沢
上杉神社にて、米沢城ゆかりの戦国武将
米沢はキリシタンが日本において平和に生きられる最期の地でした。
全国で公開処刑のような殉教が続いていきます。
- 1614年 伴天連追放之文の公布により全国において禁教となる
- 1619年 京都において52人が殉教(京都の大殉教)
- 1622年 長崎において55人が西坂にて殉教(元和の大殉教)
- 1623年 江戸にて50人が火あぶりによって殉教(江戸の殉教)
そして1624年には隣の仙台藩において記録に残っているだけでも11人が殉教しています。
仙台藩主伊達政宗が1623年の将軍家光による江戸で火あぶりを目の当たりにして、禁教へと舵を切ったからです。また1624年にはソテロ神父も長崎大村において火あぶりで殉教しています。
その間米沢藩においては、上杉景勝は政治的にキリシタンの信仰を黙認し、江戸幕府の禁教令をつっぱねていたのには正直驚きます。
幕府のキリシタンに関しての調べ、禁教政策の順守の勧告に対して、いつも自分の領内にはキリシタンはいないと答えていました。
上杉家家督争いに勝って体制を築き、織田信長の北征における大軍にも屈せず、伊達政宗とも勢力を張り、徳川家康の会津征伐の大軍にも対抗し、関ヶ原の戦い後、改易減封で石高を減らされたとはいえ藩として存続さしえた政治力を持つ、戦国の世を生き抜いた大名の度量というべきでしょうか。
信長の大軍を相手にした時「自分は良い時代に生まれた。六十余州を相手に越後一国をもって戦いを挑んで対峙し、滅亡することは、死後の思い出である」と同盟相手の佐竹義重に送った書状で綴っています。これが独立の気概というものでしょう。
その上杉景勝も1623年に没し、若干20歳の定勝(さだかつ)が跡を継ぎます。
米沢藩のキリシタン禁教と徳川家の幕藩体制確立
殉教の僅か一年前には、定勝の使いとして1628年5月に、信綱は幕府老中に柿を届けたとの記録が定勝公御年譜にあります。
「寛永5(1628年)・二 同晦日 川越御鷹場ヘ 甘糟右衛門信綱使節トシテ 美濃柿一箱ヲ献呈シ玉ヒ 幕府御稽留(けいりゅう)ノ 御機嫌ヲ窺玉(うかがいたも)ウ 酒井忠勝内藤忠重 稲葉正勝マテ使翰(しかん)ヲ呈シ玉フ 、、、二月晦日 定勝酒井讃岐守様人々御中」
このことは甘糟信綱が定勝に直接使える高位の武士であった事の左証でもあり、この時期はまだ藩内のおいてキリシタンへの禁教が無かったことが伺えます。
また、1628年3月には鉄砲組の軽卒を任されたことが定勝公御年譜にあります(丸太久左衛門盛次組は鉄砲組であることが上杉文書「紹襲録」にあります)。
「同二十日丸太久左衛門盛次(まるたきゅうざえもんもりつぐ)組ノ軽卒ヲ甘糟右衛門信綱組二命セラルヘキ旨 御書ヲ以テ志駄義秀二此ヲ命ぜラル」
甘糟信綱は「殿談義」として知られていた分かりやすい説教を信者たちにしていたのでしょう。
殉教が起こる2ヶ月前の1628年11月に、甘糟信綱が4人の僧侶に洗礼を授けたと前述のポール神父に手紙で書いていています。また其の子の、ミゲル太右衛門は1628年10月から12月の半ばまでに45人の大人に洗礼を授けたと、ポール神父に知らせています。
ですが、1628年の夏頃から事態は急変していました。
家老広居出雲守忠佳が甘糟信綱らキリシタン信者らの行動について定勝に手紙を送ります。藩内でのキリシタンの動きを詳細に記していて、放置していることを幕府知られたら上杉家は危険であることを述べて、早急に処刑することを提言しました。
この動きに反対したのが総家老の志駄義秀でした。直江兼続の元で薫陶を受け、甘糟景継と共に戦い、上杉景勝の意を知る人でした。
キリシタン弾圧は、藩を幕府に完全に帰属される幕藩体制確立に使われていること、上杉家の徳川家への完全な服従とつながることを上杉景勝は理解していただろうし、それは志駄義秀も分かっていたでしょう。織田、豊臣、そして徳川と天下を統一した者がいましたが、上杉家は常に戦い独立していましたし、徳川も何時までもつかと考えてもいたかもしれません。
ですが、徹底した全国でのキリシタン弾圧、鎖国をすることで、徳川家による日本支配という幕藩体制は完成していきます。
そして、時代の流れとして広居忠佳のような者がでてくるのでしょう。
定勝には幕府の意を汲むことに以外になすすべはありませんでした。隣の独眼竜と言われた伊達政宗を初め他の大名がそうであったように。
後に寛永12年(1635年)将軍家光が参勤交代制を発布して「今後は諸大名を家臣として遇す」と言った時には反対する大名はいなくなっていたのです。
1628年12月22日に、定勝は志駄義秀にキリシタンを処刑するよう命じましたが、義秀は信者の数をあえて多く3千人といい逆に翻意を促します。
12月25日には、志駄義秀は定勝が気にいるように十戒を書いて、キリシタンたちの教えが立派であることを説明し、処刑を延期させることになります。
そして、志駄義秀は甘糟信綱らに信仰を諦めるよう願いますが、これはキリシタンには受け入れられないことでした。
年が明け、雪の降る1月12日に処刑は執行されます。
53人の名前が刻まれた北山原殉教地にある碑
人間の力を超えた事柄
米沢には司祭が常駐しておらず、共同体は甘糟右衛門信綱を中心に信徒によって築かれていました。
「組」を通じて、慈悲のわざと呼ばれる福音活動を行っており、それを上杉景勝、志駄義秀などは評価していたからこそ、幕府には領内にキリシタンはいないと一蹴していました。
「へりくだるこころこそ大切です。信仰を貫き、いのちを捧げることは、もはや人間の力を超えた事柄であり、神の助けなくして殉教はできません。殉教するためには日ごろから神の教えに忠実であろうとすることが大切です。」
ルイス甘糟右衛門信綱が殉教を控えた仲間に送った言葉です。そして、人間の力を超えた神の助けを証ししました。
その言葉には、時代を超えた超絶した真を感じます。
北三原殉教地にて
米沢の53殉教者
城下の29人(北山原で殉教)
1 ルイス 甘糟右衛門信綱 与板組三〇〇石の武士(御使蕃・鉄砲組頭)。米沢教会のリーダー。
2 ミカエル 甘糟太右衛門 甘糟右衛門信綱の長男 23歳 あるいは28歳
3 ドミニカ 甘糟太右衛門の妻 23歳 (若松の生まれ)
4 ジュスタ 甘糟太右衛門の娘 3歳
5 ビンセンチオ 黒金市兵衛 甘糟右衛門信綱の二男 17歳
6 テクラ 黒金市兵衛の妻 17歳
7 ルチア 黒金市兵衛の娘 1歳
8 マリア 伊藤 甘糟太右衛門の妻の妻の召し使い
9 マリナ 長房 甘糟右衛門の召し使い
10 ペトロ 弥兵衛 甘糟右衛門の召し使い
11 マチアス 彦介 甘糟右衛門の召し使い
12 テモテ 大峡次郎兵衛 甘糟家に寄寓する江戸の浪人
13 ルチア 大峡次郎兵衛の妻
14 ヨハネ 五郎兵衛 家を追われ甘糟家に寄寓 80歳
15 ヨアキム 三郎兵衛 (和田村の百姓)
16 ヨハネ 坂斎主計 (あるいは番斎織部) 志駄修理の配下
17 アウレア 坂斎主計の妻
18 アントニオ・織(おろす) 坂斎主計の息子
19 パウロ 三十郎 坂斎主計の養子(娘婿)
20 ルフィナ 坂斎主計の長女・三十郎の妻
21 パウロ 三十郎の息子 5歳
22 マルタ 三十郎の娘 3歳
23 シモン 高橋清左衛門 広居出雲の家来。衣装係の役を外され、門番を命じられる。
24 テクラ 高橋清左衛門の娘 13歳
25 パウロ 西堀式部政貞 身分の高い侍・若松の同宿から受洗 31歳
26 ルイス 甚右衛門 米沢の武士に仕える。仲間からキリシタン甚右衛門を呼ばれる。80歳
27 アンナ 甚右衛門の妻 ポルロ神父から1628年8月受洗
28 マンショ 吉野半右衛門 高位の侍 教理指導者
29 ジュリア 吉野半右衛門の妻
糟山の13人(6人は北山原、7人は糟山で殉教)
30 アントニオ 穴沢半右衛門 足軽組(徒士小姓)。糟山の信者のリーダー。
31 クレセンチア 穴沢半右衛門の妻 糟山で殉教
32 パウロ 重三郎 穴沢半右衛門の長男
33 ロマノ 松次郎 穴沢半右衛門の息子 14歳 糟山で殉教
34 ミカエル 治 穴沢半右衛門の息子 11歳 糟山で殉教
35 アンデレ 山本七右衛門 足軽組(徒士小姓)
36 マリア 山本七右衛門の妻 糟山で殉教
37 ウルスラ 山本七右衛門の娘 3歳 糟山で殉教
38 イグナチオ 飯田惣右衛門 足軽組(徒士小姓)
39 ルチア 飯田惣右衛門の妻 糟山で殉教
40 ヨハネ 有江喜右衛門 足軽組(徒士小姓)
41 マグダレナ 有江喜右衛門の妻 糟山で殉教
42 ペトロ 有江喜蔵 有江喜右衛門の長男
新藤ケ台の8人(北山原で殉教)
43 アレクシス 佐藤清助 足軽組(徒士小姓)
44 ルチア 佐藤清助の妻 穴沢半右衛門の娘
45 エリザベト 佐藤清助の娘 3歳
46 パウロ 佐藤又五郎 佐藤清助の弟 足軽組(徒士小姓)
47 N・七左衛門 足軽組(徒士小姓)
48 マグダレナ 七左衛門の妻
49 女児 七左衛門の娘 5歳
50 女児 七左衛門の娘 3歳
花沢の3人(いずれも花沢の刑場・新藤ケ台で殉教
51 アレクシス 庄右衛門 足軽組(徒士小姓)
52 カンディド 坊主と呼ばれた少年 庄右衛門の妻の弟 14歳
53 イグナチオ カンディドの甥 1歳
参考
北山原殉教遺跡から車で5分、歩いて20分ほどの所に米沢カトリック教会があります。ここで「米沢の殉教者」という冊子を貰うことが出来ます。
冊子には、米沢の殉教者に関することが詳しく載っています。この記事を書くにあたって、多くを参考にさせていただきました。