時の流れ中で、属する社会の中で、今の自分が存在する意味・理由を与えてくれる幾つもの「物語」を歴史の中で探すことができる。その中でも国や人種を越えて多くの人が共有した「大いなる物語」は人類の歴史を動かしてきたし、今でもダイナミックに動かしている。
「大いなる物語」は信仰であったり、フランス革命に端を発する理性によるリベラリズムな理想郷の追求であったり、また原始共同体から労働者の共同体の物語としての共産主義であったりする。
人は「大いなる物語」を共有することで仲間を見つけ、究極的に全ての人が一つの共同体になる物語の中で自分の存在意味を知り、正義を見方とし理想を求めてこの世の中に戦いを挑む。ただ皮肉な事に実際の歴史においては、それぞれが正義を主張する事で対立を生み、またグループ間でも争いがたえない。
一方この「大いなる物語」に対して、18世紀ドイツの神学・哲学者であり詩人であったヘルダーは、人はそれぞれ人が話す言語、慣習、伝承などを共通をする人の中で幸せを求めることの価値を説いた。それを共有できる人たちを ドイツ語でVolkと言った。日本語だと同郷とでも言うのだろうか。
ヘルダーは若きウェテルの悩みを書いたゲーテにも大きな影響を与え、ゲーテへ宛てた手紙の中で「詩とは人をして同郷(Volk)の意識を芽生えさせる。彼らに世界を見ることを、彼らの手の中にある魂を世界へと導く」と書いている。また、「愛国心を失ったものは彼自身と彼の周りの世界の全てを失ったものである」と言った。
「ある未開の男が、彼と、妻と、子供を愛し静かな暮らしを楽しみ、同じ仲間との限られた交際を生涯続けているほうが、全ての人類を覆う影の中で有頂天になりながら暮す文化的な影になるよりもよっぽど良い」と。ここで言う影とはフランス革命の「大いなる物語」の産物、具体的には理性による自由、平等、博愛の社会の追及という理想だ。
当時ドイツの知識人たちは、フランス革命とその後のナポレン遠征に接した時に、その理想と普遍的な価値観に対して共感しつつ、必死に自分達の言葉でフランス人の言う理想を消化する必要に迫られた。実際に接したフランス人達からは傲慢さを感じたのかもしれない。ついには理性による理想の追求に対して、人間性の歴史を語るまでに発展させたのがヘルダーだった。
ヘルダーは聡明であり、この同郷(Volk)の理論の危険な展開の可能性も知っていた。絶対主義もプロシアスタイルのナショナリズムも嫌っていた彼は、ドイツに住むユダヤ人達の擁護をしている。また、人種に対する科学的な根拠に疑問を持っており、地球上には一つの人類しかいないではないかと言っている。
純粋に同じ神話を共通する人との生活は幸せだ。そして、それはソ連がバラバラになったときに、この同郷に従って国が生まれたし、東西ドイツはそれぞれ別のシステムで幸福を追求していたが、共産主義が崩れた時には何処の国でもなく又一つになった。
ともあれ、こうして「大いなる物語」のことを思うと、言葉、人間性、国、伝統、歴史を考えるまでも無く僕は日本人だとアメリカに居て強く感じる。このヘルダー的な深み、日本での仏教も正にそうだけれども、それぞれの国において歴史に根付いた信仰は、同郷の意をふんだんに取り込んでいる。でもアメリカでいう信仰は、それが理性による理想の追求というより、いや理論の追求のように感じて落ち着かない。
確かに、信仰はアメリカが掲げる「大いなる物語」の一つの柱だ。
人がより自由に個々に利益を追求することで「神の見えざる手」が働き、歴史は更に早く進んでいき神の国の理想はより早く実現されるとされる。信仰と自由と、そしてそれを担保する経済の自由を強調した資本主義の物語。グローバリゼーションという名前の下に、アメリカの「大いなる物語」としてそれを世界中へと広げていた。
さらに、この物語のもと、自由な経済活動を妨げる規制や地域の伝統は、理想の進歩を妨げるものとされ排除されてきた。このアメリカの「大いなる物語」への理解なくしては、アメリカが、何処へ向かおうとしているのか、いや何処に向かおうとしていたのかを理解するのは難しい。
もちろんアメリカには、この理想の追求よりも同郷の心地よさを求める人達も多くいる。その人達に支持されて生まれたトランプ政権は、「大いなる物語」を捨て、同郷の心地よさの追及舵を切ったかのように見える。
実際に「大いなる物語」に取り残された人の方が絶対数は多いだろうし、彼らが同郷であることの権利に重きをおいて、自分たち自身の安全圏を作っておきたいというのも分かる。その同郷の理論において、文化的に異なる社会・異民族の移民は基本反対である。そして、同郷の理論にも正義があるのだ。ただ同郷を超えた人とは共有され得ず、その同郷の正義がぶつかり煽られるときに、危険な対立へ展開する可能性をはらむ。
こうして今、アメリカの「大いなる物語」は終わることなく途切れてしまおうとしているのだろうか?
日本にいる人の大方の意見は、この「大いなる物語」に無理やり付き合わされていたという気持ちが多かったように聞こえる。それにこの物語は、エリート層の間でだけアメリカを越えて多くの国の人に共有されたものでもあった。また、この物語を実現しようとするため特別負わされた重荷を支えるゆとりを、アメリカは失ってしまったのかもしれない。それに、実際のところ、未だかつて歴史の中で完成を迎えた「大いなる物語」は無い。民主主義という大いなる物語も含めて、全てが、その理想とするところの実現のために戦い続けている物語だった。
また伝統や権威とあまりに乖離してしまった「大いなる物語」が物語として語られるのではなく、単に政治的目標として変質してしまうと、つまるところ急進的なリベラルな思想となり、逆説的だがその実現にはきわめて強権的な政治を必要とし、個々の自由を奪うことになる。
この危険な因果関係について、過去の例として、人権や平等をうたったリベラルなフランス革命に代表される権威なき政治があげられる。結果は強力な政府を追求し恐怖政治に陥ったのだ。
自由を理論付ける「神の見えざる手」も、それを理想の原理として、実現のために大声を上げて権力を追求し実現しようとすれば、逆に個々の自由を奪うことになるのだ。そして「民主主義」も、理想の原理として権力を行使して実現しようとすることには、逆に「民主主義」と損なう危険性がある。
今のアメリカを、このリベラルな強権政治の危険さにNoと言っている状態と捉えることもできる。このNoは個々の自由を求めての戦いでもあるし、それは本質的により深いアメリカの「大いなる物語」の一端と理解することもできる。自由は強制されるものではない。
これまでの歴史は、国や民族を超えて共感される「大いなる物語」を雄弁に語った者によって次の時代が開かれてきたことを示している。今新たな物語が何処かで語られているのだろうか。これについて、更に深めていきたい。