英国と日本での政治と信教統制の歴史、そして米国憲法で保障された信教の自由。これらは一見あまりつながりがないようですが、実は深い類似性と、関連性があります。
政治的な自由と精神的な自由の衝突を中心に、イギリスと日本それぞれの政治の発展を対比的に考察すると、関係が見えてきます。
そして米国において、イギリスから独立する過程で、本当の意味での個人の自由が成り立ちました。そこには、一人ひとりが信仰を持って行動することの必要さを説いた歴史があります。
イギリス政治エリート階級の宗教権威からの独立
イギリスでの議会政治の発展とは、とどのつまり、エリート上流階級者達が自分達の権威を保ちながら、教会と王権の両方の権威から脱して、経済的、政治的な自由を手に入れていった歴史です。そして、これは心の自由を犠牲にして起こったことでした。これを順を追って見てみます。
まず、中世ヨーロッパ諸国において、教皇は教会の最高権威者として、そして正当な王権を与えるものとして、国家に対して政治力を行使していました。また、今の言葉で言えば、教皇は国に対して非常にグローバルな権威でした。
カール大帝の戴冠式(800年) フリードリヒ・カウルバッハの作品
一方で、フランス、スペインなどは、教皇のいるローマに地理的に近いことから、逆にローマでの政治に直接介入して、教皇と国の政治的バランスを取ることもできました。これらの国では、中世において、高位聖職者が政府の要職について、王権とカトリック教会(教会法)が一体となったような政治、司法を行っています。そして、正にカトリック保護者として、カトリックに敵対する国に武力を行使することを正当化していました。
当時教会が正当な国王を認める権威を持っていました。ローマに対して影響力を直接行使できないイギリス等の周辺国家は、王位継承問題など国内の微妙な政治に、強力なカトリック国家であるフランス、スペインから教会を通じた間接的な政治介入を受けることを、余儀なくされていました。
また当時の教会は、例え非常に政治的な事柄においても、信徒には信仰として、教会が言うことに従うよう命じていました。政治的な事柄に関して、一信徒として行動することが大切なのですが、当時の環境でそれは難しかったでしょう。結果、当時の一般信徒達は教会組織の政治的な一員として歴史の流れに飲み込まれていきます。
天国の鍵を聖ペトロに託すキリスト ラファエロ作(1515)
カトリック教会からの国家への政治介入を排するため、イギリスでは支配層(貴族)と上位聖職者達の間に、その領土内における最高の主権(sovereign)は国家であって、国家が国内にある教会の上にあるべきだという考えが16世紀に広がっていきます。その当時の教会は、ヨーロッパの何処の国でも、教会が所有する土地から得られる収入は、その国で課税されること無く、そこからローマへ献金として納めていました。つまり教会の持つ土地は、税収の上ではローマの領土でもあったのです。ですから、これに対して、国家の主権を確立するのは、これらの土地の帰属を国にすることでもありました。この考え方は、プロテスタント宗教改革の影響です。
また、イギリス国王ヘンリー8世は、若い頃は熱心なカトリックで、プロテスタントの考えに反対し、教皇レオ10世から信仰の守護者という称号まで得ていました。ですが、彼が最初の妻と離婚し新たな妻を迎えることを望んでも、教皇クレメンス7世が認めなかったことから、カトリック教会から心が離れてしまいました。
ついに、イギリスでは国王、政治エリート、一部聖職者達の思惑が一致し、1534年にカトリック教会から独立して英国教会が誕生します。国王が英国教会の最高元首となり、それは今現在に至ります。信仰共同体である教会のトップが国王なのは、英国がローマ教皇から独立するための政治的な理由なのです。
ヘンリー8世
ヘンリー8世は英国教会の最高元首として、国内にある殆どの修道院等の宗教施設を閉鎖し、それらの収入源を王家の収入としてしまいます。また取り上げた土地は大地主貴族に売って戦費の調達にあてています。このように、ローマからの独立は、国内におけるカトリック教会の施設、土地、そして収入を奪うことで、経済的に王家と大地主貴族に大変有益でもありました。
同じ時期に、日本においてはキリシタン(カトリック)の教えがスペイン帝国のポルトガル宣教師によって伝わってきました。1549年に聖フランシスコ・ザビエルが日本に上陸します。織田信長は仏教勢力への対抗上、キリシタンを保護します。その信長を継いだ豊臣秀吉も、一夫多妻制を認めれば、自身もキリシタンになってもいいと言っていたほどした。ですが秀吉は、九州征伐のおりに、そのカトリック教会が長崎に領土をもち、司祭が大砲の積まれたスペインの軍船を指揮するのをみて、スペイン帝国の体質を察知します。そして、1587年にバテレン追放令を出し、キリシタン禁制へと舵を切ります。この時秀吉は、長崎を取り上げて直轄地にし、教会の収入源を自分の物へとします。
自分の上に立つような宗教の権威者を認めたくなったという意味でヘンリー8世と秀吉は同じで、カトリック教会に対する政策も似ています。
外国勢力と見なされた信仰へのイギリス国家の介入と統制
また、ヘンリー8世は、誰でも政治家や公職につく者、そして教会の聖職者に対して、英国教会の最高元首たる王に崇高の誓い(Oath of Supremacy)を強制しました。そしてそれが出来ない者は、国家反逆罪で処刑されたのです。まさに、イギリス版の踏絵ですね。
以下に1535年に出された崇高の誓い(Oath of Supremacy)の古い英語での原文と、私が辞書を引きながら行った日本語約を載せます。
I (state your name) do utterly testifie and declare in my Conscience, that the Kings Highnesse is the onelySupreameGovernour of this Realme, and all other his Highnesse Dominions and Countries, as well in all Spirituall or Ecclesiasticall things or causes, as Temporall: And that no forraine Prince, Person, Prelate, State or Potentate, hath or ought to have any Jurisdiction, Power, Superiorities, Preeminence or Authority Ecclesiasticall or Spirituall within this Realme. And therefore, I do utterly renounce and forsake all Jurisdictions, Powers, Superiorities, or Authorities; and do promise that from henchforth I shall beare faith and true Allegiance to the Kings Highnesse, his Heires and lawfull Successors: and to my power shall assist and defend all Jurisdictions, Privileges, Preheminences and Authorities granted or belonging to the Kings Highnesse, his Heires and Successors or united and annexed to the Imperial Crowne of the Realme: so helpe me God: and by the Contents of this Booke.
日本語訳
私(名前)は良心にしたがって心より証言し宣言します。国王殿下が、王国、支配する領土と国々と、また地上での(この世での)、全ての精神的、教会事項、教会法における唯一の最高支配者です。この王国内において、外国の王子、人、高位の者、国家、有力者が、管轄権、権力、優位性、卓越性、また教会および精神的な権威を有することはありません。よって、私は全ての(外国勢力の)管轄権、力、優位、及び権威を完全に放棄し認めません。今後、王殿下、相続者、合法的な後継者に対して忠実と真の忠誠を約束します。私の力を持って、国王殿下、相続者、合法的な後継者に与えられ、そして属している管轄権、特権、卓越、権威、及び帝国に統一され併合された領土を守ることを約束します。神よ、この事で私を助けて下さい。
教義的に難しいことはさておき、教会のトップは国王であると誓わされるのです。勿論、信仰深いカトリック信者が簡単に誓える内用ではありません。ユートピアを書き、ケンブリッジ大学、オックスフォード大学の副総長(High Steward)にもなり、ルネッサンスの人文学者でもあり、法学者であったトマス・モアは、この誓を拒絶し殉教しました。また、人文学者の聖職者で、枢機卿でもあり、ケンブリッジ大学の総長を務めたジョン・フィシャーも同じく誓いを拒絶して殉教しています。現在でも英国教会のトップは変わることなく王室ですし、英国教会がイギリス国教となったままです。
トマス・モア
以下に1559年のエリザベス一世の時代に、拒絶すべきなのが外国勢力であると、より分かりやすい英語で誓いが更新されています。また、全ての国会議員、大学にいる者も、この誓いをすることが要求されるようになりました。つまり、カトリック信者は、国会と大学からも締め出されます。
I, A. B., do utterly testify and declare in my conscience that the Queen's Highness is the only supreme governor of this realm, and of all other her Highness's dominions and countries, as well in all spiritual or ecclesiastical things or causes, as temporal, and that no foreign prince, person, prelate, state or potentate hath or ought to have any jurisdiction, power, superiority, pre-eminence or authority ecclesiastical or spiritual within this realm; and therefore I do utterly renounce and forsake all foreign jurisdictions, powers, superiorities and authorities, and do promise that from henceforth I shall bear faith and true allegiance to the Queen's Highness, her heirs and lawful successors, and to my power shall assist and defend all jurisdictions, pre-eminences, privileges and authorities granted or belonging to the Queen's Highness, her heirs or successors, or united or annexed to the imperial crown of this realm. So help me God, and by the contents of this Book.
日本語訳
私「名前」は良心にしたがって心より証言し宣言します。女王殿下が、王国、支配する領土と国々と、また地上での(この世での)、全ての精神的、教会事項、教会法における唯一の最高支配者です。この王国内において、外国の王子、人、高位の者、国家、有力者が、管轄権、権力、優位性、卓越性、また教会および精神的な権威を有することはありません。よって、私は全ての外国の管轄権、力、優位、及び権威を完全に放棄し認めません。今後、女王殿下、相続者、合法的な後継者に対して忠実と真の忠誠を約束します。私の力を持って、女王殿下、相続者、合法的な後継者に与えられ、そして属している管轄権、特権、卓越、権威、及び帝国に統一され併合された領土を守ることを約束します。神よ、この事で私を助けて下さい。
1562に施行された王位の優越法(Supremacy of the Crown Act 1562)により、この誓を二回拒絶すると国家反逆罪になるとしました。
ジョン・フィシャー
この状況の中、教皇ピウス5世がエリザベス一世を正当なイギリス女王と認めず、破門にしたことで、この断絶は更に深くなります。そして、太陽の沈まぬ国の皇帝であり熱心なカトリックであったフェリペ二世が、教皇の意向も汲んでエリザベス一世の転覆を図ってからイギリスとの戦争を始めると(英西戦争、1585年-1604年)、イギリス国内でのカトリック迫害は更に徹底されたものになります。
イギリスが、カトリック教会と一体となった海外勢力から国家の独立を保つために、国内のカトリック信徒を迫害したことは、日本においても1587年に豊臣秀吉が、スペインの軍事力を宣教師たちの背後に察知して、バテレン追放令を出したことと近い関係があったのです。
エリザベス1世
イギリスは内戦を経て、クロムウェルが起こした1654年から1660年のスペインとの戦争の最中に、カトリックの秘跡(信仰のお恵み)を拒否する誓いを強制する審査法が施行されます。これは、清教徒的キリスト教の考え方に沿ったものでした。公職、軍に属するもの、上院議員、下院議員の誰もが対象で、カトリックであると疑われたものは召喚され誓いをすることを要求されました。
I, (Name), abhor, detest, and abjure the authority of the Pope, as well in regard of the Church in general, as in regard to myself in particular. I condemn and anathematize the tenet that any reward is due to good works. I firmly believe and avow that no reverence is due to the Virgin Mary, or to any other saint in heaven and that no petition or adoration can be addressed to them without idolatry. I assert that no worship or reverence is due to the sacrament of the Lord’s Supper, or to the elements of bread and wine after consecration, by whomever that consecration may be made. I believe there is no purgatory, but that it is a popish invention; so is also the tenet that the Pope can grant indulgences. I also firmly believe that neither the Pope, nor any other priest can remit sins, as the papists rave.
日本語訳
私「名前」は、特に教皇の権威、及びその教会一般の権威を、忌み嫌い、唾棄し、拒絶します。善い行いに対して報いがあるという教義を非難し否定します。私は、聖母マリア、他の天国にいる聖人に対する畏敬の念がないことを確かに信じ誓います。そして、偶像崇拝無しに、取次の願い、崇敬を行うことは出来ません。私は、聖体拝領の秘跡、誰によらず聖化されたパンとぶどう酒(キリストの体と血)に対する崇拝と畏敬を表すことをしません。私は煉獄(天国に行く前に聖化される、地獄よりも上位な場所)などはなく、これは教皇派が考えたもと信じます。また教皇が免罪を与えることができるという教義も、教皇派が考えたと信じます。私は、教皇や司祭による罪の許しを行うことができると教皇派が吹聴しているが、できないと強く信じます。
カトリック信者にとって、このような誓いを述べることは出来ません。正直私は、清教徒としてのクロムウェルの信仰って一体なんだったんだと思います。ともあれ、この誓いを拒絶するごとに、3分の2の資産を失うことになり、非常に有効にカトリック信者の資産を取り上げることに使われます。
クロムウェル
同時代の日本の徳川幕府による禁教令は、拷問によって強制的に棄教させるまで徹底的でありましたが、イギリスにおいては、カトリック信者を貧民化し、社会から阻害していくやり方で根絶を徹底させたのです。
イギリス議会の国内政治基盤の確立と信教統制
1688年に名誉革命が起こります。イギリス議会はカトリックであったジェームス2世を追い出し、プロテスタントのウィリアム3世を迎えて、王の政治権限を非常に制限し、議会の優位性を打ち立てました。
名誉革命とイギリス王ウィリアム3世
実はジェームス2世はその前年の1687年に寛容宣言(Declaration of Indulgence)によってカトリック、英国国教会以外のプロテスタントを含めた信仰の自由を認める宣言を出しました。これを、英国教会元首として発令したのですが、一番反対したのが、その英国教会でした。カトリック教徒から財産を没収することで経済的に焼け太った英国教会としては、当然の反応であったでしょう。同じく焼け太った議会議員と英国教会の思惑が一致して起こった事件でした。
ジェームス2世
イギリスの政治貴族達は、王が英国国教会の元首として、カトリック教徒を圧迫するのに有効であったため、それまでの王権を残していたと考えられます。しかし名誉革命は、その英国教会の元首である王の権限を制限して、自分達の政治的な自由と独立を確立したとも言えるでしょう。
時にカトリックに対して理解のある王が現れた(そして政治混乱があった)イギリスにおいて、王権とその伝統的な権威が制限された名誉革命以降は、カトリックへの締め付けがより徹底されます。
その名誉革命により英国の王となったウィリアム3世は、崇高の誓い(Oath of Supremacy)を持ちだして、カトリック教徒の財産没収合法化を復活させます。
1700年に施行されたPopery(教皇派)法によって、隠れ教皇派である司祭を通報し、そう判明したら多額の報酬が与えられるようになりました。日本で隠れて活動する宣教師を密告した者に、幕府が多額の報酬を与えたのと同じですね。さらに、誰であれ18歳6ヶ月になると、崇高の誓い(Oath of Supremacy)を強いられ、誓えない者は犯罪者として土地を購入することも、相続することも、保持することも禁止されます。そして様々な重い特別な税金を課せられ、結果的にイギリスのカトリック人口は1800年初頭までに1%まで減少します。表向きには英国国教会の信者として、密かにカトリック信仰を保っていた人もいたようです。これは、日本での潜伏キリシタンに通じます。
最終的に1701年の王位継承法によって、イギリス王室はプロテスタント信者のみに継承されることが決められ、今でもその法律は有効です。
権利の章典
名誉革命後に成文化された権利の章典(1689年)は、議会の優位性を打ち立て、その議員たちの議会内での発言の自由を保証したものでした。それは、イギリス国内のカトリック教徒達の犠牲の上に成り立ったものなのです。
アメリカにおいて宣言された信教の自由
信教の自由を最初に保証したのは、イギリスから独立したアメリカです。1776年に独立宣言をし、まだ独立戦争を闘っている間の1791年、アメリカ合衆国憲法修正第1条によって信教の自由を宣言します。
議会は、国教の樹立を支援する法律を立てることも、宗教の自由行使を禁じることもできない。 表現の自由、あるいは報道の自由を制限することや、人々の平和的集会の権利、政府に苦情救済のために請願する権利を制限することもできない
また第6条では、イギリスのように信教を否定するような誓を強制する事を禁止しました。
アメリカ合衆国では如何なる役職もまた公的な信託もその資格付けのために宗教的な審問を要求してはならない
この合衆国憲法制定には、アメリカ合衆国建国の父の1人で、カトリック教徒でもあるダニエル・キャロル、そしてアイルランドで生まれアメリカで商人として成功したトマス・フィッツサイモンズも関わっています。
合衆国憲法 原本の最初のページ
また、カトリックの資産家であったチャールズ・キャロルは、非常に熱心なアメリカ独立派として活動しました。「最初の市民」というニックネームを使って、メリーランド新聞上で独立支持の論調をはっています。メリーランド州代表議員、大陸議会議員として独立戦争を戦い、独立宣言にサインしています。彼の様にアメリカに渡った人達によって、カトリック信仰の息吹は生き続けたのです。
チャールズ・キャロル
そして、ここで挙げた人たちは、信教の自由という普遍的な価値を打ち立てたアメリカ建国の父達ともなったのです。
ここで大切なのは、彼らアメリカ建国の父達が個々に信仰と良心に従って行動したことでした。個人として教会組織から独立して政治見解を持ち行動することによって初めて、信教の自由という価値を掲げた国を建てることが出できたのです。
仮にもし彼らが教会組織の一員として教会の指示に従って行動していたら、国政とは異質な政治的組織の一員として、建国に参加できなかったでしょう。
国において、宗教と政治の分離により、信教の自由が保障されたのは、個人として、教会権威から独立して行動できたことが土台になっているのです。
後追いで信教の自由を保障したイギリス
イギリスは1783年のパリ条約でアメリカの独立を認めることになります。そして、カトリック信者の多いアイルランド人達のナポレオン戦争を含む戦場での活躍もあり、イギリスは1829年にカトリック救済法によって、カトリック信徒に、ほぼ同等な市民権、選挙権、そして国会への代表権を与えます。
ダニエル・オコンネル アイルランド人の政治家で弁護士。カトリック救済法の制定に尽くしました。1828年にイギリス下院に立候補し選挙に勝ちますが、崇高の誓い(Oath of Supremacy)を拒否します。拒否によりオコンネルが下院議員になれない事で、アイルランドで大暴動が起こることを恐れたイギリス政府は、1829年のカトリック救済法を立法化します。この時の国際情勢が、アイルランドで暴動が起こる事態を、イギリスは回避せざるを得なかったのでしょう。
イギリスがカトリック許容と動いたのは、1799年にあったフランス革命とそれに続く混乱、そしてナポレオンの興亡を通じて、フランスは世俗政権となり、カトリックとしてのフランスの脅威はなくなり、むしろ急進的なリベラル世俗主義としてのフランスが脅威となったことも影響しているでしょう。フランス革命勢力との戦争においては、イギリスはヨーロッパのカトリック諸国と連合しています。
それでも1871年のカトリック救済法まで、聖体拝領の秘跡へ否定の宣言は続けらます。1926年のカトリック救済法によって、カトリックへの信仰組織への加入、公的な場での信仰行事がやっと認められるようになるのです。
日本との関連で言えば、1868年に明治政府が徳川幕府の禁教政策を継ぎ、多くの長崎のキリシタンに迫害と拷問を加えたたときに、イギリスは日本政府に対して抗議しています。また、1871年に出発した岩倉具視の欧米使節団がイギリスに来た時には、明治政府の禁教政策を「文明国」として信教の自由が保証されなくてならないと抗議しています。皮肉にもその頃まで実際にはカトリックを制限していたイギリスは、自国は文明国ではないと自ら言っているようなものです。
岩倉具視の欧米使節団
実は現在においても、イギリスでの信教の自由の規定は取り繕ったようで曖昧です。
一つには1953年に発効された欧州人権条約で規定され、もう一つは加盟している国連での基本的人権として規定されてることから、イギリス内で信教の自由が法的にあるとされています。ですが、イギリス国内法では、20世紀末の1998年に発効された人権法でやっと規定されます。
日本での近代的な信教の自由の権利は、第二次大戦後の日本国憲法にて、アメリカ憲法を参考にした条文によって規定されます。
ここまでイギリスと日本の禁教政策との類似性を、主にイギリスの歴史から考察しましたが、イギリスと日本は後追いでの信教の自由の規定をしているという点でも似ています。
アメリカでの生活
イギリスでの、カトリックに対する偏見は、その植民地であったアメリカの社会に大きな影響を残しています。アメリカの一般社会でカトリックに対する偏見が無くなったのは、1960年にカトリックであるジョン・F・ケネディが大統領に選ばれてからだと言われています。
ジョン・F・ケネディ 僅か43歳で35代合衆国大統領に就任します。アイルランド移民の子孫です。大統領の選挙戦において「私はカトリック代表としての大統領候補ではありません。私はカトリック信徒である民主党代表の大統領候補です。私は公共の問題について(カトリック)教会のためにを語ることはありません。そして教会が私のために話すこともありません」と演説しました。政治家個人として、教会組織から独立して行動することを語ったのです。また、自身の第二次世界大戦中での活躍を「南太平洋で海軍に勤務し戦っていた時には、誰も私の宗教に関して聞いてくることは無かった。」と語りました。現在までジョン・F・ケネディが唯一のカトリック信徒の大統領ですが、副大統領としては、最近では民主党オバマ大統領の副大統領バイデン、そして共和党トランプ大統領の副大統領ペンスがカトリック信徒です。
私は今現在、アメリカで日本人カトリックとして生活していますが、カトリックとして偏見を持たれたような経験はありません。
信教の自由を確立したアメリカ。祝福あれ!