生月塩俵の断崖 県指定の天然記念物
手元に生月大橋を渡った所にあった「道の駅生月大橋」観光案内所でもらった地図がある。平戸市役所生月支所産業建設課が担当で作った地図です。
言ってみれば、地元の人による地元の紹介地図です。
この地図が大変便利。
生月の観光スポット、お食事どころ、旅館・民宿、貴重なトイレの場所、コンビニの場所等が載っていて生月観光にとても役に立ちます。
この地元が配る観光地図に、幾つものキリシタン信仰の伝承が伝わる地が載っています。
現地でしかこの地図は手にはらないと思います。この地元発行の地図にある生月のキリシタン巡礼地を紹介していきます。
一枚目 西海国立公園長崎県平戸市生月町いきつきよかとこマップ
(画像とクリックすると大きな画像で見られます)
二枚目 生月までの交通アクセス 館浦スポットと壱部スポット地図
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だんじくさま(一枚目地図、いきつきよかとこマップの左側)
入り口に案内があります。
殉教地 ダンジク様
(画像とクリックすると大きな画像で見られます)
案内には以下のようにあります。
ダンジク様とはキリシタン信者の家族、弥市兵衛(やいちべえ)と妻と息子のことです。伝説によると三人は、弾圧の逃れて西海岸のダンジク(暖竹)の茂みに隠れます。しかし、息子が海岸に出て遊んでいたところ、船で来た役人に発見され、処刑されたと伝えられ、隠れていた場所が彼らを祀る聖地となっています。役人が船を着けたとされる瀬に船を着けると海が荒れると言われ、八卦員の経緯から現在でも船での参拝がきんじられています。命日の1月16日には、山田のかくれキリシタン信者により現地で行事がおこなわれるほか、山田や館浦のダンジク講でも行事がおこなわれます。なお伝説や彼らを描いたお掛け絵には聖家族のエジプト逃避伝説の影響が認められます。
英語での説明もあるので載せておきます。
Danjiku refers to a Christian family consisting of Yaichi Ei, his wife and son. According to the legend, the three were hiding from the oppression in brush of perennial cane (danjiku in Japanese, here the name). Unfortunately, the son was caught playing on the shore by a patrol boat of officials which led to their execution.Their hiding place now serves as sacred land where the family is worshipped. It is said that docking a boat at the spot where the patrol boat was docked caused the sea to rage. Therefore, it is not allowed to arrive by boat. The 16th of January marks the anniversary of their death. On this day the hidden Christians of the Yamada and Tachiura branch conduct several rituals in their memory. Paintings that depict the family and their legend are influenced by the tale of the Holy Family’s escape from Egypt.
案内がある場所から、結構下った所に史跡だんじく様があります。
史跡だんじく様
だんじくさまのある海岸 残念なのことに打ち上げ漂着ごみが目立ちました
クルスの丘公園ガスパル様(一枚目地図、いきつきよかとこマップの中央左よりの下部)
「生月に永遠に刻まれたキリシタン信仰の壮絶なドラマ」の記事を参考にして下さい。
幸四郎の森(パブロー様)(一枚目地図、いきつきよかとこマップの中央)
幸四郎様はサン(聖)パブロー様とも呼ばれています。
生月には、キリシタン禁教を監視する役人として来ました。ですが取締の折に来失明して、キリシタンの祈りによって回復したためにその後キリシタンとなり、殉教した聖人として伝えられています。使徒言行録に載っている聖パウロの改心の話に似ていることから、幸四郎様はパウロともパブローと言われるようになったのかもしれません。
幸四郎山と言われる聖地で、この森に入って薪をとると病気になるという伝承があり、ここに入るときは古い草履をはいてはいけないとして、新しい草履と履き替える習慣があったそうです。
壱部氏屋敷山、屋敷跡(二枚目の地図、右下にある壱部スポット地図の右下)
生月は南側が籠手田家、北側が壱部家に与えられていた領土で2つの家とも松浦家の支流でした。
籠手田家、壱部家共にキリシタンであり、籠手田安経(やすつね)と壱部家の養子となった一部勘解由(かげゆ)は兄弟でした。
安経の息子である籠手田ジェロニモ安一(やすがず)と勘解由の息子で”武士の花”と呼ばれた壱部バルタザル正治は、平戸の大名松浦鎮信が家臣団にキリシタンを改宗するように強制した時、知行地を犠牲にして共に長崎へ脱出しました。
壱部氏は領民にとても慕われていて、その屋敷跡は350年もの間誰も立入りすることなく守られてきました。
時と共に鬱蒼と茂った森となり、そこには小さな祠があったと言われています。
今ではその跡地は整理されて保育園となり、その隣には小さなお堂が建てられ、旧8月29日を壱部氏の命日として、ゆかりの人々によって「オラショ」が唱えられているそうです。
アントー様と焼山(二枚目の地図、右下にある壱部スポット地図の中央右よりの上部)
アントーさまも江戸時代は領民にとって立ち入り禁止の崇敬地で、アントニオ庄平という慕われた殉教者を葬ったところといわれています。
焼山の場所はキリシタン時代、教会堂や大阪にあったセミナリオが一時移転してあったところとされています。
禁教時代、ここでキリシタンたちを切り捨て、穴に放り込んで焼き捨てたため「焼山」と呼ばれるようになったと言われています。
ここも潜伏キリシタンの聖地で、樹木の伐採を禁じて崇敬された場所で、現在は木々に覆われた丘に
なっています。御堂が建てられ、かくれキリシタン信者の祈りの場所となっています。
千人塚(二枚目の地図、右上にある館浦スポット地図の中央上部)
多くの殉教者を葬った場所といわれています。ここには、千人松といわれる大松が生えてい
ましたが、終戦後、松喰虫のために枯れてしまいました。
八体龍王(二枚目の地図、右上にある館浦スポット地図の中央左よりの上部)
ここらへんは旧海岸で、妊婦とその胎児を含めて八人のキリシタンが
処刑された場所と言われています。今では、お産の神様とて祀られて、参詣者がいるそうです。
おわりに
宣教師が完全に追放され、教会に日本の様子が報告されなくなった後も、生月には多くの殉教があり、それは言い伝えとして残されています。
カトリック教会の正史には残らずとも、カトリックの1人として、こうして伝えられてきたことに信仰を感じます。そして、その心と伝統に崇敬の念が自然と生じます。
大エバ灯台の下にある草原 的山大島(あづちおおしま)度島(たくしま)が見えました