黒瀬の辻(クルスの丘公園)
生月と聞いて場所がすぐ分かる人は正直少ないと思います。
長崎県平戸市にあり、九州から平戸島を経て、その北西にある島です。
16世紀の一時期には多くの住人がキリシタンであった島で、ルイス・フロイスの日本史を読んでいると、当時生き生きとした共同体が生まれていたことが出てきます。
そして江戸時代の厳しい禁教の元においても「潜伏キリシタン」達が信仰を伝え続けてきました。
もし生月に訪れるようなことがあれば是非「黒瀬の辻」に行ってみて下さい。クルスの丘公園とも呼ばれ、地元で配っている観光地図に載っています。
生月の観光地図(クリックすると大きな地図が見えます)
地図で緑色に囲ってある所です。因みに、この「道の駅生月大橋」観光案内所でもらった地図大変便利でした。生月の観光スポット、お食事どころ、旅館・民宿、貴重なトイレの場所、コンビニの場所等が載っていて生月観光にとても役になった。現地でしかこの地図は手にはらないと思いますが、便利なのでここに載せておきます。
ここには大きな十字架(クルス)と殉教の碑があります。
黒瀬の辻(クルスの丘公園)殉教の碑
この十字架の前にある広場からは、2018年にユネスコ世界遺産に選ばれた「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の一つである中江ノ島が目の前に見えます。
長崎県平戸市中江ノ島 黒瀬の辻より
黒瀬の辻(クルスの丘公園)の碑
黒瀬の辻(クルスの丘公園)の碑 (クリックで大きな画像で見られます)
ここに最初の十字架が立てられたのは、今から約460年も前の、一五五八年の事でした。碑には次のように刻まれています。
ここ黒瀬の辻は、生月のキリシタンにとっては信仰の原点とも言える最高の聖地です。一五五八年、生月で最初にキリスト教の布教をしたガスパル・ヴィレラ神父は、この地に大きな十字架を建て、その周囲を塀で囲み、信者たちの墓としました。生月を訪れた人は、まずこの後に案内され、祈りを捧げたと言われています。また、一五六三年には、新しい十字架がコスメ・デ・トルレス神父によって祝聖建立されたことが、イエズス会修道士フェルナンデスによって次のように述べられています。「この年の元旦に生月で、これまで日本で建てたもの中で最も美麗な十字架を建てました。わたしたちは一千人ほどの信者とともに長い行列をし、みんな花輪を被り、聖歌を歌いながら行進しました。十字架の所に着くと、神に賛美を捧げ、それから十字架を称賛し、これを崇敬する理由についての説教をききました」。黒瀬の辻の十字架は、こうして生月のキリシタンの信仰を養い育て、見守ってきました。そして迫害の嵐が吹き始め、目に見える十字架は取り去られた後も「あの十字架のもとで命を捧げたい」との願いは残りました。一六〇九年、生月最初の殉教者となったガスパル西玄可としの家族は、この地で殉教し葬られています。また中江の島で殉教した多くのキリシタンたちも、十字架を心の中に思い浮かべながら船にゆられ、最後の祈りの中で「ここから天国は遠くない」という確信を得て、その命を神に捧げていきました。わたしたちは、こうした生月の多くの殉教者たちの遺徳がこれからも讃えられ、その精神が子々孫々にまで心に刻まれていくことを、この記念碑建立の願いとします。一九九二年十一月生月カトリック信徒一同
この碑で述べられているガスパル西玄可とは一体どういった人だったのでしょうか?
現在の館浦は当時「舘の浜」と呼ばれていました。西玄可はここを司る奉行、生月の名門の「西」家の長男として生まれました。
館浦は生月大橋によって平戸島と繋がっており、当時も平戸島との連絡口で、生月の中心地でした。
この碑で述べられているガスパル・ヴィレラ神父が生月へ最初に布教した年には、彼は未だ二歳でした。でもこの時に洗礼を受け、神父と同じガスパルの洗礼名を授かります。玄可は成人してからの名前です。
この年から、活発な共同体が育っていったようです。
数年の後の1561年に、生月を訪れたイエズス会のアルメイダ修道士が手紙で生月のキリシタン達の事を以下のように述べています。
「私は度島に数日間とどまり、毎日二回説教をし、また二回教理を教えてから、生月という島のキリシタンを訪れることにした。船に乗って5キロ位の所まで来ると、高地に建てられた一基の十字架が見え始めた。その周囲に城壁のような塀があり、その囲いの中にキリシタンを埋葬するのである。この島の人口は二千五百もあって、その中の八百人はキリシタンである。我々が乗っていた船には、その前日に迎えに来た島の主要な数人のキリシタンもおり、我々が上陸するのを、大勢の人々が待ち受けていた。はなはだ親切に私を迎え、彼らの習慣に従って十字架まで行き、それを拝してから聖堂へおもむいた。」
この手紙にある、「高地に建てられた十字架がある墓地」、つまりクルス(十字架)の辻が、禁教の時代を経て、「くるす」が「くろせ」となり、今の黒瀬の辻となっていると考えられています。
辻とは、この地方ではちょっとした坂を登り切った所のことを言います。また辻という意味に十字架をかけているのかもしれません。
因みに、1561年といえば、日本史の中では、その前年に織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破り、その基盤を固めている最中ですが、生月では信仰の種が植えられ育っていました。
この手紙が書かれた後の20余年、生月のキリシタン共同体は互いに支えあい、育っていきます。またガスパル西も、キリシタンとして、また生月の総奉行として、その共同体を育て見守る立場として育っていったことでしょう。
しかし時代はキリシタン達にとって逆風となっていき、それは生月のキリシタンにとっても同じでした。
- 1587年、秀吉は九州平定後、バテレン追放令を出す。
- 1597年には長崎西坂において二十六聖人が秀吉の命により殉教。
- 1599年、生月を含めた平戸を治める大名松浦鎮信がその父隆信の葬儀を機に、家臣団のキリシタンに改宗を迫り、キリシタンとして生月を知行としていた籠手田家と壱部家が長崎へ逃亡。
この籠手田脱出事件際に、配下の奉行であったガスパル西は生月に残りました。いや残れたというべきなのか。
平戸の大名、松浦鎮信の視界にキリシタン指導者としてのガスパル西の存在は薄く、領内のキリシタンの支柱であり重臣であった籠手田家と壱部家がいなくなれば、キリシタンはいなくなると考えてた形跡があります。
残ったガスパル西ですが、勿論その奉行職は解かれてしまい、海側である舘の浜は近藤喜三、海側の山田を井上右馬允の二人に分け与えられてしまいます。
ですが新たな山田奉行とガスパル西とはもともと友情関係があったようです。さらにもう1人の奉行、近藤喜三の息子とガスパル西の娘マリアが1607年に結婚します。
新しい奉行は、地元の有力家と婚姻関係を結ぶことで、より自分の地位を安定出来ると考えていたでしょう。
また、ガスパル西としては自分の娘が松浦久信の妻メンシアのように、キリシタンを庇護するような力を得ることを期待していたかもしれません。
このような新しい奉行達との関係により、職を絶たれた後も、その地のキリシタンである農民に教理を教え、幼児に洗礼を授け、死者の埋葬を取り仕切るなど、共同体の指導者、伝道士としてガスパル西は、キリシタンが多い生月の第一の有力者でした。
生月での最初の殉教
でもここから、問題が発生します。
嫁いできたマリアに対して近藤喜三は仏教徒として生きるように勧告や説得をもって転ばせようとしただけでなく、お守りや数珠、その他のものを押し付けました。
夫は理解があり、マリアに信者としての生活を許し、寧ろ父親である近藤喜三のマリアに対する態度に反対していたようですが、家の中での様々な嫌がらせや抑圧に二年間耐えたマリアも、ついには実家に戻ってしまいました。
このことで舅、近藤喜三は、自分の思い通りに行かないことで逆上し、娘マリアをかばっている父ガスパル西を松浦鎮信に讒言することを企てるようになります。
その頃、今も平戸にいくと赤い三重塔が目立つ最教寺の空盛上人が生月の島に来ていました。近藤喜三は彼を訪ねて、ガスパル西がキリシタンであり、また地域の農民を指導し、キリシタンの教えを広げていることを告げました。
この空盛は鎮信に非常に影響力を持っていました。
というのも、最教寺があった地には、もともと曹洞宗の勝音院があったのだが、鎮信はその住職である竜呑と弟子の英鉄ごと焼き払い、そこに最教寺を建てたのです。
そして、鎮信自信が空盛を大和長谷寺から呼んできて初代住職にしたのでした。
空盛からガスパル西の事を聞いた時に、鎮信は籠手田家と壱部家の追放後にもキリシタンが存在していることに衝撃を受けたようです。
そして自分の権威に歯向かった者を調べ、死刑にするように空盛ともう1人の山伏に命じました。
空盛と山伏が生月に来た事とその目的は、地域の住民によってガスパル西へ素早く伝えられました。
であるがガスパル西は自分はキリシタンであり、そのために命をささげる覚悟を持っているから、注意することは無いと答えたと言います。山田奉行井上右馬允の屋敷へ出頭してくるように通達があった時も、信仰のために逮捕され、死刑になることに喜びを持って迎えました。
同じ日に長男であるジョアン、そして妻であるウルスラも束縛されます。
刑吏が不意を襲ってジョアンを捕縛しようとした時、かれは刀をとって戦おうとしましたが、理由が信仰のためと伝えれれ父ガスパルも捕らえられたと聞くと、刀を捨て、自分を捕らえ父のところへ連れて行ってくれと言いました。
逮捕された夜も、ガスパル西へのキリシタン達の訪問は許されていたようで、彼らに殉教の恩寵と栄光を伝えていました。
1609年のイエズス会年報から、この後のことを知ることが出来ます。
処刑の時、次の日の土曜日11月14日の朝になると、ガスパルはキリシタンであった一族の人々に、またそこに居合わせた皮下の人々に別れを告げ、自分はこれから天国へ行く、彼らも皆しばらくして自分に続くだろうと言った。そして数人のキリシタンに伴われ、斬首が行われることになったクルスの辻へ行った。そこに着いた時に、奉行井上右馬允に対して次のように言った。「自分は彼に処刑されていると心得ており、この処刑について何の責任も無いのでこれを気にする必要はない。全ては舘の浜の近藤喜三の仕業である。尚、自分が望みに望んだ時がいまや近づいており、キリシタンであるがゆえに生命を献げることになるので、キリシタンたちがこのような場合にしているように自分も祈りをもって準備したい。」と言った。以上のように簡単に話した後に、ガスパルは死刑の地に跪きながら、縛られた手を縄が許す限り上へ拡げて、心中に己を我が主にゆだねた。そこで奉行井上右馬允は日本の習慣に従って、彼に名誉ある最後をもたらそうとして、一打ちで首を斬った。ガスパルがそのように死んでから、立ち会ったキリシタン達やその他そこに来た人々は、同じ右馬允の指図で彼の死骸を納め、以前、十字架の立っていた場所でキリシタンの習慣に従って埋葬した。
また、息子ジョアンと妻ウルスラの殉教についての記録もあります。
ウルスラは、自分らが連れて行かれるのは他でもなく、自分らを騙して殺すためだとよく分かっていたので、処刑をすぐこの場でやるようにと言って、そのためにもう一度戻って準備しようとした。しかしそこは家の門の前であったので、ー人の役人は、そうではないから前に言ったように彼らを船に乗せて助けるために海岸の方へ行くと言った。彼らはその方へ連行され、ジョアンは先頭に、ウルスラは少し後ろを行った。このように二人とも、死ぬことを覚悟して自分を神に委ねて進んでいくうちに、1人の刑吏がごまかしながら刀をとって突然、ウルスラの胸を突き刺したが、しかし刀はよく切れなかった。ウルスラはイエズス・マリアの至聖なる名を呼びながらひざまずき、そして周りの人々によく聞こえたように、二度も三度もそれを大きな声で繰り返した。それでもう1人の刑吏が二度目の打撃を与えると、彼女の首が肩からはね飛んだ。そして地面に落ちながらもう一度、イエズス・マリアと言い出して刑吏を大いに驚かせた。その前を歩いていたジョアンは刀の音とイエズス・アリアを叫ぶ母の声を聞くと、ただちにひさまずいて、二度も同じ至聖なる名を呼んだが、係止のもう一人が一うちで彼の首を斬った。こうして二人はガスパルと同じく最期を遂げたので、三人共我らの主なるデウスがその公営のために殉教者に与える栄冠を受けている。彼らの遺体は暫くの間、埋葬されずに死刑の場所に残されたが、その後、奉行右馬允が許可を与えたので、キリシタンたちが急いで彼らをその殺された近くに葬った。
生月キリシタンの指導者はこうして殺されます。西家は生月の地元一の名家でもあり、キリシタンとして育った共同体の奉仕者が、ある意味、精神的には何も関係のない外部からの者によって処刑されました。
生月で生き続けた信仰の記憶
しかし、彼らの記憶は生月の人々の中で静かに、でも力強く生き続けたのです。
殉教の碑の裏にある雑木の茂みの中にある古い墓石のうち、海に向かって端にあるのが「ガスパル様の墓」という。禁教期の徳川時代を通じても、この場はガスパル様という名で崇敬され続けていました。
また墓から生えていた大松は「ガスパル様の松」と呼ばれていました。三百余年もガスパル様の墓を知らせていたこの松は、その役割を終えたのように近年になって松食虫のために枯れました。
上の写真は昭和の初期に撮られた「ガスパル様の松」 現地案内板より
枯れて元しか残っていないがガスパル様の松の横には、ガスパル様の墓と伝承される積石の墓。
一七世紀初頭頃にみられる形式です。
ガスパル西が殉教の前に伝えたように、その命は時代を超え確かに生きています。
この黒瀬の辻から、裏手にある少し細い道の小高い丘を登って行くと、現代の信教共同体であるカトリック山田教会が見えてきます。
生月 カトリック山田教会
この教会で、この殉教に関して歴史的な背景などより詳しく知ることが出来る冊子を得ることもできます。この記事を書くにも大変参考にさせていただいています。
生月の殉教者 福者ガスパル西玄可とその家族
永遠に刻まれた信仰
この教会には聖トマス西が列聖された記念碑があります。
トマス「西」?
そうガルパス西玄可の次男です。
カトリック山田教会 聖トマス西列聖記念碑
カトリック山田教会 聖トマス西列聖記念碑の文(写真をクリックすると大きな画像で見られます)
この碑にはこう刻まれています。
聖トマス西六左衛門神父聖トマス西神父は、1590年ガスパル西玄可の次男としてこの生月に生まれた。父ガスパル西は平戸領主松浦隆信の重臣、籠手田氏の代官として山田、館の浜を支配していた。しかし法院鎮信のキリシタン弾圧によって、一六〇九年妻長男とともに生月で最初の殉教者となった。一六二〇年頃トマス西神父は、修道者となるためにマニラに渡り、ドミニコ会のロザリオ修道院に入った。一六二五年修道誓願を立て、修道名をトマス・デ・サン・ハシントと行った。その後、聖トマス大学で神学を学び、一六二六年ドミニコ会最初の日本人司祭に叙階された。一六二九年厳しい迫害のさなかの長崎に上陸し、日本の各地で迫害に苦しむ信者に秘跡を授けるなど献身した。しかし、一六三四年八月病気の同僚神父の看護にあたっていた際長崎で捕らえられた。役人の棄教の脅しにも耳をかさず、再三の水責めや竹串を指の爪の間に押し込まれるなどの拷問にも屈しなかった。一六三四年十一月十一日西坂の丘で何日もの穴吊りのけいを受けて四四歳の生涯を終えた。まさに信仰の証となったトマス西神父を教皇ヨハネ・パウロ二世は一九八一年フィリピンで他の一五人の殉教者達とともに列福した。一九八七年同教皇はこの殉教者達を「聖トマス西と他の一五殉教者」として日本人では百二十五年ぶりにローマで列聖した。教会は毎年九月二十八日をこの聖人たちの祝日と定めている。一九八八年九月二八日生月カトリック教会
父ガルパス西が信仰故に殺された後、その息子も信仰故に殉教しました。
ひっそりと日本史に刻まれた、でも永遠に刻まれている、日本人の壮絶で力強い信仰のドラマを、この生月において感じました。