「日本の就活は怖い」
ワーキングホリデーでカナダにいたとき、語学学校のクラスメイトたちに言われました。日本でも多くの人が、就活生がみな同じような黒っぽいリクルートスーツに身を包み、同じような髪型で街を歩いている光景を「没個性的だ」と指摘します。
一部ではわたしもそう思います。
「女子の髪型は一つ結びかハーフアップ」とか、
「ヘアピンは外から見えないようにつけるべき」とか、
「ストッキングはベージュが基本で、黒やタイツはNG」とか、
そんなの何の意味があるの?と反発したくなります。
(特に、黒い裏起毛タイツは寒い時期に絶対穿きたい!!スカート寒すぎだよ。)
一方で、「みんな同じリクルートスーツという状況は没個性的でよくない」という意見に対しては、わたしは懐疑的です。
リクルートスーツはどのメーカーやブランドが出しているものでもデザインに大きな違いがなく、パッと見では何の印象も与えません。
「何の印象も与えない」こと。
これは就活生の個性を奪っているのではない、とわたしは思うのです。
就活生の環境や境遇をいったんフラットにすることで、外見による面接官の先入観や偏見をできる限り小さくしている
就活にはお金がかかります。交通費や食費、文房具代、靴代などなど。でも就活生全員がお金に余裕のある人たちというわけではありません。
また、世の中にはファッションのセンスのある人と、そうでない人がいます。
そして、なんでも着こなしてしまうスタイルのいい人と、そうではない人がいます。
もし就活が完全にフリースタイルで、スーツというものが存在しなかったら?
お金のない就活生は、みすぼらしく見えてしまう服を着まわして面接に行かなければならないかもしれません。
ファッションセンスのない人は、ダサい、垢抜けない服装で採用試験に行ってしまうかもしれません。
スタイルのよくない人は、自分の難を隠すために時代遅れのチュニックやぶかぶかのシャツを着て行ってしまうかもしれません。
もしそうなったら、面接官は彼ら彼女らを正しく評価してくれるでしょうか?
服装一つでどうしても悪い印象を持ってしまわないでしょうか?
一方で、リクルートスーツという一つの「型」があれば、就活生の外見の要素はひとまず不公平ではないところまで揃うはずです。
スーツは普通大学に入るときなどに新調して何年も着られるものですし、センスやスタイルによって大きな差が出ません。一定の見栄えは担保されます。
こうすることで、就活生たちの外見による印象について、経済的余裕や生来の体型など本人のどうにもしづらい部分による不公平な要素はかなり小さくすることができます。
そしてその上で、面接官は就活生一人ひとりの中身を見ることができるでしょう。
その人の考え方、大学での過ごし方、将来の目標…就職活動において本来評価の対象となるべき部分がクリアに見えてくるはずです。
もちろん、「服装も含めて本人の個性を見ることも大切だ」とか、「スーツだけでは不公平な要素は埋められない」とか、いろいろな反論はあると思います。わたし自身も、スーツを着ることやスーツを指定されることはあまり好きではありません。
ですが、「リクルートスーツ=没個性的な日本の就活文化」というのはちょっと短絡的かな、と思います。
スーツによって消されてしまうくらいの個性などは、個性ではない
外見は大切な自己表現手段の一つですが、それだけしかないのはどうかと思いますし、結局会社員になるのであれば、スーツらしきものを着て社内外の人と会い、そして信頼を得る必要があります。そうであれば、外見以外のところでも個性を発揮したり、実力を見せたりすることができなければいけないはずです。
噺家の方の多くも、だいたい大きく変わらない色やデザインの和装をされていますよね。その服装から得られる情報が最低限に抑えられることで、聴き手は語られる内容の面白さに集中することができるのではないでしょうか。
ちなみに、どうしてもスーツを着たくないのであれば、スーツを着ないで就活をすることもじゅうぶん可能です。
実際わたしが受けた会社の多くは、面接で「服装自由」や「私服で来てください」という注意書きをしていました。わたしはスーツを着たい日はスーツを着用し、着たくない日は好きな私服で行くようにしていました。つまり、「スーツを絶対着たくない」という(ある意味)個性を持っていれば、スーツを着ない就活という個性を発揮すればいいわけです。
日本は均質で画一的でつまらないなぁ、と感じることはたしかに多々あります。
ですが、リクルートスーツの就活はそういった一面だけではないかもな、というふうに思った就活生時代。今日はそんな気づきをシェアさせていただきました。