見た目がボーイッシュなレズビアンのことをボイと呼び、逆に女の子らしい見た目だとフェムと呼ばれる。
ボイ、フェム、タチ、ネコ、…これらはレズビアン用語だ。
タチはセックスの時に攻める側、ネコは受ける側、リバは両方できる、といった具合に分けられていて、見た目とセックスの時の立ち位置とを合わせて、ボイタチ、とかフェムリバ、とかいうのがレズビアンの自己紹介ではあるあるになっている。
カップルは必ずしもボイとフェムではなく、フェム同士のカップルも多いので、きれいなお姉さん同士のカップルさんは見ていて惚れ惚れしてしまう。
さて、街中で出会うレズビアンについて、私たちにはゲイの皆さんがお持ちのゲイを察知する能力“ゲイダー”ならぬ、“レズダー”なるものが備わっているので、一部のレズさんは視線で通じ合ったりするのだが、そんな中でも見た目で最も分かりやすいのが、ボイの皆さんだ。
彼女たちはトランスジェンダー(性同一性障害、FtM)とは異なり、自分は女性だという認識を持ちながら、ボーイッシュなヘアスタイル、服装を好む(個人的には刈り上げ、ゴリゴリのピアス、タトゥー女子が多い気がする。)
また、レズビアン業界ではボイタチさんの需要が大きいため、結構モテる。
…うらやましい限り。
今回はそんなボイさんが、日々の生活の中で遭遇するちょっと困った苦悩について、身近なボイさんに聞いてみた。
● トイレでギョッとされる
普段あらゆる公衆トイレを利用するのだが、女子トイレに入った瞬間、時折見知らぬおばちゃんに「えっ」なんて言われてしまうことがある。
え、何なら脱ぎましょうか?とか言いたくなるらしい。
男女兼用のトイレがあるとひとまずそちらを利用してしまうなど、なんとなく女性用のトイレに入りづらい気持ちがあるようだ。
声で女性だとわかる(声パスという)ことも多いので、誰かと一緒にいるときはできるだけ大きめの声で会話しながらトイレに入っていったりする工夫も必要。
● 女性もののスーツ、化粧を強要される
特に学生の就活時、学校の指導で女性もののスーツを着用するように強要されたのがつらかったそう。これはトランスジェンダーの方の苦悩に近いが、生まれ持った性別に括られてしまうことへの抵抗がとても強い人が多いように感じる。
ボイさんは個人的に参加する結婚式などでは男性物のスーツを着用して参加していることが多く、それがまたかっこいい。
● レディースデーに免許証
映画館のレディースデーの際に、免許証で性別確認されたことがあるのだとか。
本人も、まさか免許証とは!となったらしい。
受付の方は少し年配の方だったそうで、年代によって受ける対応が違うことを実感したとのことだった。年齢確認ならぬ、性別確認を行うというのはなかなか、衝撃的なエピソード。
● じろじろ見られる
電車の中や、街中で、とにかく視線を感じる。「あの子、男の子?女の子?…」という視線が多いようだ。まだまだジェンダーレスな社会には程遠いなぁと実感せざるを得ない瞬間。
…と、いろいろな苦悩を抱えて日々過ごしていることがわかった。
「みんな、知らないから怖いんだろうね」
と、彼女は言う。
人はたいてい、誰かを見たとき無意識に、その人を自分の中にあるカテゴリーに当てはめようとしてしまう。
男性、女性、大人、子ども、かわいい、かっこいい、外国人、日本人、障がい者、健常者、怖い人、優しそうな人、などなど…
カテゴライズすることで、安心するため、というのが最も大きな心理だろう。
そして自分の持っているカテゴリーにあてはまらない人や、自分にとって理解できないカテゴリーに当てはまった人を、異質な存在として捉えてしまう。
瞬時に判定される脳内のカテゴライズに、うまく当てはまらなかった人は、“何かわからない存在”として怪訝な表情で見つめられる結果となる。
自分の知らない領域の存在は、恐怖の対象になる。咄嗟に構えてしまうのは仕方ないことなのかもしれない。防衛反応の結果生まれた、当然の反応なのかもしれない。
しかし、相手は無害な人間だ。性別がよくわからないからって、じろじろ見る必要はないし、拒絶する必要もない。せめて、どっちだろう?女の子かな?くらいでいい。
本当の意味で偏見のない人というのは、そもそもカテゴリーに当てはめようとしない人のことをいうのではないだろうか。相手を、その人としてそのまま受け入れる。それは意外と簡単なことかもしれない。
ほんの少し気にして過ごしてみるだけで、自分がいかにカテゴリーに縛られていたかわかるはずだ。ボイとかフェムとかいう言葉だって、カテゴライズじゃないか、と私は感じてしまう。
矛盾しているような気がしてくるが、マイノリティと名乗るにはまず自分をカテゴリーに嵌めないといけない。問題は、相手をカテゴライズするかどうかということだろう。
ぜひ、他人をカテゴリーに縛りつけない生き方を、試してみてほしい。
レズビアンとかゲイとかいうのを超えて、人類みな兄弟、みたいな気持ちになれるに違いない。