「私、実はっ…左利きなんだ!」
ある日、友人にこう言われたとしたら、皆さんは何を思うだろうか。
へぇ、とか、そうなんだ~、とか、そんな感じだろう。
珍しいと思うかもしれない。しかし、だからといってその人に対する見方が変わるわけでも何でもない。
では、次の場合はどうだろう。
「私、実はっ…レズビアンなんだ!」
人によっては、お茶を吹くかもしれない。
そうなんだ~、とか、そんな感じの人もいるだろう。
しかしこの二つ、どちらも同じ確率で皆さんが受けるかもしれないカミングアウトなのだ。
実は、LGBTと呼ばれる人々は、左利きの人と同じくらいの割合で存在すると言われている。
それでも両者には大きな隔たりがある。恋愛観をあまり表に出さない国民性もあるだろうが、しかし、世の中への浸透っぷりの違いが最も大きいだろう。
今回はそんな世の中で、娘からレズビアンであるというカミングアウトを受けてしまった母親の衝撃について、体験談を語ってみようと思う。
伝える方は言うまでもなく荷が重いが、実は言われる方も結構大変なのかもしれない。そんな、エピソード。
母と二人、なんてことなく過ごしていた白昼。ふと、今なら言えるかなと思った。
「お察しかと思うんですが…私、長野に彼女がいます。笑」
私が笑顔で軽くポロリと彼女の存在を告げた、その瞬間の母の顔は忘れられない。
言葉にするならば「何言ってるの、この子」だ。
咄嗟の拒絶反応に、思った以上に私自身もショックを受けてしまった。
それまでわりと多様性だのなんだのということに理解ある母であった分、あの戸惑いの表情は衝撃的だった。
お察しではなかった…。微妙に複雑な心境になってくる。
何とも言えない無言が続く。普段どちらかというと仲の良い親子だというのに、非常に気まずい沈黙の時間。目が合わない。なんだこの感じ。
いろいろな考えが頭の中をぐるぐるした。そうして結局、
「偏見がないといいな」とだけ言い残して、私はその場から逃げてしまった。
家族は、誰よりも近しい存在だからこそ、受け入れてくれた時の安心感は凄まじいし、拒絶されたときの絶望感もまた凄まじい。
ただ、好きな人が居ると告げただけなのにな。
相手が男性だったら?
「彼氏ができたよ」だったら?
いわゆる普通の、反応が返ってきたのだろう。そのことがまた悲しくて悔しかった。
その日の夕飯時、母は何事もなかったかのように接してきた。それがまた切なかったが、私自身も疲れてしまいそれ以上何も言えなかった。
…それから数週間をかけて、母は母なりに状況を飲み込み考えてくれた。
特に何も言わないものの、彼女の存在を理解したらしかった。(いまだにはっきりとは語り合えていない)
今では彼女に対しても何事もなく優しく接してくれている。これは非常に嬉しい限りだが、娘としてはもう一歩踏み込みたいところでもある。
微妙な探り合いのような状況の中、時間はかかりそうだが、じわじわとアピールしていきたいと思えるまでになった。大きな進歩だ。
一方で、最初から当たり前のことのように受け入れてくれる人も多数いる。
友人はほとんどがカミングアウトしても「そうなんだ~」程度の反応で、彼女ができたといえば純粋に喜んでくれた。
友人に恵まれたな、と素直に思う。ここで否定され友人関係が破綻するのも、結構つらい。
こんな感じで、カミングアウトには結構、勇気と希望と覚悟と勢いとその他もろもろが必要なのだ。日常の一場面でふと言ってみようと思ったわたしは猛者に近しい。
だから今ちょっとだけ考えてみよう。
あなたの最も仲良しの友達が、「同性愛者なんだ」と伝えてきたら?
友達だと思っていた同性の友人に「好きです」と告白されたら?
あなたの子どもが「同性の子を好きになった」と伝えてきたら?
具体的に想像してみてほしい。そのときあなたが否定的に感じるのも肯定的に感じるのも自由だ。
カミングアウトされたときに何を感じるのか。ごく身近にLGBTの人がいたらどう接しようか。いわばイメトレをしてみてほしい。
自分に関係のある出来事として捉えてみたら、ものの見方は変わってくる。
LGBTといわれる人たちは、決してテレビの中の存在でもなんでもなく、一人の人間として今日も同じ社会の中で生活している。華々しく活動する人々がいる一方で、ひっそりと生きるLGBTもずっと多い。
今日、家まで帰る間に何人のレズビアンとすれ違うだろうか。何人のゲイと、トランスジェンダーと、バイセクシャルとすれ違うだろうか。
そんな視点で街の中を歩いてみたら、ちょっと見え方が変わってくるかもしれない。
セクシャルマイノリティが同じ社会に生きていることが当たり前に浸透して、
「私、左利きなんだ」
と言うのと同じくらい大したことなく
「私、レズビアンなんだ」
と言える世の中になったら
それって結構すごく素敵じゃないか、とわたしは思うのだ。