【意思は変化しうるもの】
先日、NHKから昨年の8月に東京都の病院で人工透析の中止を決意した40代の女性患者が死亡したというニュース(archive.foによる保存記事)が報じられました。
それは、考えに考えぬいたうえでの決意であったに違いありません。
しかし、東京都は医療法にもとづいて病院に立ち入り検査を行うなど、女性患者が人工透析の中止に同意した経緯、そして、「中止した後に考えを変えて人工透析の再開を望んだ」ことがなかったかなど詳しく事情を調べるとしました。
女性患者が、人工透析を中止した後でさらなる苦痛を覚える中、人工透析を再開したいという意思が尊重されなかった可能性があるからです。
ここでは、人間の「尊厳死」について考えていきたいと思います。
人工透析とは
人工透析は、「血液透析」と「腹膜透析」というふたつの治療法があり、どちらかを用いて病気で腎臓の機能がかなり低くなってしまった患者に行う治療です。
それは、専用の装置が腎臓の代りに、血液中の老廃物を除去して血液をきれいにしてくれる大切な治療で、重たい腎臓病の人にはかかせない生命線になるのでした。
しかし、残念ながら腎臓全ての機能を備えているわけではないため、生涯にわたり治療し続けてさらには合併症も生じるという現実が待ち受けている大変な治療です。
それでも、その治療方法を止めるということは、苦痛を伴うだけではなく、なにより命を失う覚悟をもしなければなりません。
人工透析をしたことのない者が、口にできるようなことではないかもしれませんが、それはとても肉体的、精神的に負担を強いること。
そして、費用や時間までもかかる治療なのだと思います。
人工透析を見合わせる場合
NHKのニュースによる、日本透析医学会のガイドラインは下記のとおりとしています。
見合わせる時は主に
▽人工透析を行うことが患者の生命に危険を及ぼす場合や、
▽状態が極めて悪い、いわゆる終末期の患者が、人工透析の中止を希望した場合
そして、患者の体の状態が改善した場合や患者や家族が再開を希望した場合は、人工透析を再開する。
また、患者が人工透析を強く拒否した場合は、医療チームが治療の必要性について納得してもらうよう努力したうえで、それでも患者の意思が変わらなければ尊重する。
終末期 … 論じ手によってはさまざまだが、手の施しようのない病状にある状態。終末医療(ターミナルケア)という言葉を耳にするが、現在は公の定義として明確化されていない。
終焉の決断に至る理由、そして「尊厳死」
必ず訪れる終焉、それを受け入れるためには死と向かい合わなければなりません。
しかし、生きるうえではどうしても避けては通ることはできないでしょう。
尊厳死とは、人間が人間らしく尊厳を保ち終焉を迎えることです。
それには、終焉を迎えることがわかった時にどうして欲しいのか、自分の意思を伝えられるうちに、親族に伝えたり書面(いわゆる指示書)にしたりして、たとえ意識がなくなろうとも本人の意向を守り尊重するための大切な約束なのです。
世界では、法律として立派に尊厳死を守る国もあります。
しかし、現在の日本においては、本人による書面(指示書)があっても、その支持のとおりに治療を中止したことに対して、生存権を侵したとして法的に訴え出るケースがあるのも実情です。
尊厳死とは、本当に難しい問題であり重大な課題でもあるのです。
延命治療
延命治療とは、人工呼吸、輸血や輸液などによって命をつなぎとめるために行う治療です。
それは、病院であれば当然のことであって、患者本人が意識をなくして苦しもうとも、延命を救うことが第一とする根本的な考え方から成り立っているでしょう。
- 人工呼吸 … 脳死などによる呼吸の停止や、肺の機能が低下して血液で酸素化が困難になった状態に行う。
- 人工栄養 … 昏睡状態や、食道の狭窄状態時に行う。
- 人工透析 … 医療行為のひとつ。腎不全になった状態で行う。
- 患者の選択権 … リビング・ウィルともいい、医療機関に対して延命治療を拒否要求する権限。
もちろん、どんなことをしてでも1日でも長く生きたい、生きて欲しいという考えであれば、なにも問題はありません。
しかし、苦痛を伴うなら早く楽にして欲しい、楽にしてあげたいという人にとっては、差し支えのなにものでもないでしょう。
加えて、費用がかかることも頭に入れておかなければなりません。
実際に、私の身内では誰にも迷惑をかけることなく、できるだけ一人で生きたいと一人住まいを続けて、倒れてすぐ入院するも1週間でこの世を去りました。
また、母は高齢ながらも幸い存命で延命治療は望んでいないことから、家族もその意思を尊重してかかりつけの病院にその旨を伝えてあります。
しかしながら、私は母の意思を尊重したい反面、人間の手で命を絶つということに対していまだに納得できない私がいるのも確かなのです。
まとめ
終焉をどのように迎えるか、いろいろな考え方があると思います。
たとえ、意思を決定したとしても、終焉に近づく中で「意思は変化しうるもの」であるということも、十分考えなくてはなりません。
そのうち、延命治療や尊厳死に関して法律が変わる可能性も十分考えられるでしょう。
それでも、そういう判断なしに当事者である本人の意向を考えられる、人間としての心を信じたいのは私だけでしょうか。