音楽家という生き物は、一体、どこにいるのだろうか。あなたが「音楽家」と聞いて思いつくのは、どんな人々だろうか。ピアノであったりヴァイオリンであったり、なんらかの楽器を演奏する人だろうか。あるいは指揮者であったり、作曲家であったりするかもしれない。では、エレキギターや、ドラムをぶっ叩く大家はどうだろう。筆者などは、彼らには「音楽家」より「ミュージシャン」「アーティスト」のような横文字が合う気がしている。要するに人それぞれである。なので、今回はまことに勝手ながら、筆者の独断で「音楽家」という言葉を使う。すなわち、ここで言う音楽家とは「ピアノであったりヴァイオリンであったり、なんらかのクラシック楽器を演奏する人、あるいは指揮者・作曲家」である。クラシック、というのが重要だ。なにせ、筆者はクラシック畑の出身で、一言に「音楽界」と言ってもクラシックのそれしか知らないのだ。少しばかり前置きが長くなってしまったが、ここで、最初の問いに戻りたい。音楽家という生き物について、よく、こんなことを言われる。「音楽家って自由そうだね」「みんな個性的なんだろうね」なるほど、それが世間一般の音楽家、あるいは芸術家に対するイメージだろう。実際、筆者も、自分が音楽家なるものを目指すまでそう思っていた。なにせ、音楽家と呼ばれる人たちは、読んで字のごとく音楽をやるのである。みんな、それぞれに価値観があり、より良い音楽を作るため、ゲージュツに邁進する人たちなんだろう、と。そして、大人になった今──晴れて音楽家として仕事をするようになった今、思う。それらのイメージは決して、嘘ではなかった。みんな、それぞれの価値観があり、より良い音楽を作るため、ゲージュツに邁進していた。ただ、「音楽家」として仕事をするためには、その個性を押し殺し、「空気を読む」ことが、どうしても必要だった。今この社会で、生き物としての音楽家は、あまりにもいびつでグロテスクな様をなしている。芸術家に、胃痛はつきものかもしれない。でもそれは、芸術そのものによる胃痛ではない。大概が、そういう「空気」によるものだ。つまり──人間関係。考えてもみれば、誰にだってわかることである。音楽家といえど人間である。そして、人間であるからには働かなくてはいけない。食っていかなくてはならない。そのためには、まず、仕事場の空気を悪くしてはいけない。次にまた、同じ現場に呼んでもらえるよう、必死で「空気を読む」必要がある。同じだ。一般的な企業や職場と何もかも同じだ。ただ、音楽において「空気」はもっと強力な武器になる。例えばこれが、最終的に個人の仕事量に比例するような現場ならいい。だが、音楽はそうはいかない。「空気」そのものが仕事の結果になるからだ。誰かが誰かを疑い始めれば、もう、同じ音楽なんてものは作れない。同じリズム、テンポ、ハーモニーを紡ぐことなどできはしない。指揮者が信用できなければ、誰をあてにすればいいのかわからなくなる。リハーサルの進行そのものが滞り、定められた3時間をただひたすら消費することになる。そうなったら目も当てられない──ただ無責任に時間を過ごして時給を稼ぐ、いい加減な人間と何も変わらない。「ここを直せばいいのに」「どうしてここを素通りするんだろう」「さっきから合ってないのに、気づいていないのか?」皆、それぞれにすっきりしないものを腹に抱えながら、3時間を過ごし、人によっては、胃に穴を空けながら帰路に着く。だが、それは決して口にできることではない。「なんでさっきから誰も何も言わないんだ、おかしいじゃないか」そんなことを口にしたが最後、彼はもうきっと、二度とその現場には呼ばれない。音楽の仕事において、演奏よりも何よりも、もっとも重要視されるのは「空気」なのだ。だから、ひたすら音楽をやり続けてきた人間は、いざ社会に出たときに壁にぶち当たる。だって、空気の読み方なんて誰にも教わっていない。「人間関係が大事」「この世界は人との繋がりが大事」そんな程度に濁されてきた現実にいきなり放り込まれて、音楽家の卵たちは呆然と立ち尽くす。仕事としての音楽は、誰もに無言を強いる。誰もに微笑みを強いて、胃痛を強いて、愚痴を、酒を、女を強いる。きっと、筆者が知らなかっただけで、古今東西、はるか昔から、音楽家の営みはこうやって続けられてきたのだろう。そう、知らなかっただけだ。風の噂で聞いていた「空気」の話を、それでも「きっと自分はそうならない」と上の空で考えていただけだ。みんな、それぞれに価値観があり、より良い音楽を作るため、ゲージュツに邁進する人たち。それが音楽家だと思っていた。どんなに個性とやらがぶつかり合っても、最後には音楽にたどり着く生き物が音楽家であり、仕事だと思っていた。だが、今、どうやらそんなものは絶滅危惧種であるらしい。一体、どこに、音楽家はいるのだろう。